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a mystery of sharaku's works 3

2014-03-14 | bookshelf
日本橋長崎屋 木版画
葛飾北斎画『画本東都遊』(1802年刊 蔦屋重三郎板)
1799年板狂歌集『東遊』に着色したもの

 片桐一男著『それでも江戸は鎖国だったのか オランダ宿日本橋長崎屋』の表紙にもなっている、北斎が描いた日本橋長崎屋の様子。元絵は、1799年に蔦屋から出版されているので、和蘭国がフランスに統治されバタヴィア共和国だった時期です。カラフルな服装をした東インド会社商社マンたちが5人見えますが、本に抽出されていた、大槻玄沢著『西賓対晤(せいひんたいご)』の記録には、江戸参府に来た阿蘭陀人は、商館長、書記、医師の3名しか記されていませんでした。髪の毛が見えない人物は、通司(通訳の日本人)なのでしょうか。
 片桐博士の研究に拠れば、日本橋長崎屋は幾度も火事に巻き込まれ、現存する資料が殆どないのだそうです。現在、日本橋長崎屋跡地と看板があるのも、だいたいその辺にあったということです。屋敷の大きさや外観など詳細は不明。ただ、他のオランダ宿(下関、小倉、京、大坂)での旅籠の中では、一番規模が大きかったそうです。
 また、阿蘭陀商人にとって、江戸参府は唯一の日本を見学できる旅行でした。カピタンたちの「江戸参府日記」が保存されていて、そこから彼らが江戸滞在中どのような行動をとらされていたかを知ることができます。そして、宿屋へ誰が何人泊まり、来客が何人いて、どんな品物が出入りしたか、という記録も幕府側に残っていたそうです。そこから解ったことは、-カピタン一行が到着する前日から厳重な警備がついた。-不審な人、物、事前の手続きによる許可がない人や物の出入りは許可されなかった。-長崎屋の門は午前6時に開けられ、午後8時に閉門、午前零時に鍵を掛けられ、見回りの者がチェックしていた。-宿泊人も目視によってチェックされていた、など厳重体制だった事実でした。
 そういった、あらゆる現存する資料をまとめてある片桐博士の『それでも江戸は鎖国だったのか』を読んで、改めて『写楽 閉じた国の幻』を考えてみると、写楽が阿蘭陀人であった可能性は考えられ難くなりました。
 ただし、資料の抜けている穴もあります。
 チェックが厳しくなったのは、1828年シーボルト事件以降らしいのです。特に物の出入りに関しては、この事件以降手順が厳しくなったようです。では、1794年前後はどうだったかというと、蘭方医・大槻玄沢の6回に及ぶ長崎屋訪問を記録した『西賓対晤』の抽出文―阿蘭陀人との会談日と対談者の名前のリストだけ―だけを見ても、何とも分からないのです。島田荘司氏の『写楽』下巻では、この『西賓対晤』の記述を見つけるところが盛り上がりなんですが。
 (片桐一男氏がこの本を出版したのが2008年、島田氏が小説を発表したのは2010年。執筆中でもこの本を見つけられなかったのでしょうか。それとも小説に出てくる重要人物の理系美人教授の名前が「片桐」というのは、偶然の一致ですね。)
 北斎の描いた『長崎屋図』を見る限り、窓は小さくても江戸庶民が見ることができて、もし言葉が通じれば、話しかけることもできたでしょう。ただ、絵には描かれていない場所に、幕府の監視員が目を光らせていて、物を与えたり受け取ったりできなかったのかも知れません。
 カピタン一行は、江戸見物はできなかったものの、江戸土産を買うことは許され、日本橋長崎屋には町奉行に許可された商人たちが多数出入りしていました。幕府側は、出入りの商人の住所と名前、品目をリストに残していて、片桐博士の著書にその一例が掲載されています。呉服は越後屋と大和屋、楊枝類は丁子屋…というふうに。1850年のものだったので、蔦屋や京伝店の名前はありませんが、錦絵の類は多数買われていました。
 カピタンの江戸参府は、1633年から1850年までで、166回も続いたそうです。初めのころは年1回、1790年貿易半減により4年に1回、日蘭貿易は1859年まで続きました。江戸後期になると、長逗留した商館員が日本画を学び描いたりしていました。その反対もあったわけで、江戸の絵師が西洋画を見て真似て描くこともありました。長崎屋研究についての詳細
  平賀源内(1728‐1780年)の描いた肖像画
 源内は絵師ではありませんでしたが、マルチな才能の持ち主で、田沼意次が老中だった時期、幕府の経済改革を思案していた田沼に才能を買われて、持ち前の発想力と創造力を発揮した人物でした。外貨を稼ぐことに着目した彼は、西洋人の好みに合わせた焼き物(源内焼)を試作したりしました。でも、海外と直接貿易することを禁じていた幕府が、阿蘭陀人相手に商いするわけにはいきません。源内は、1786年の田沼意次の失脚以前に獄中死しますが、彼が投獄された事件―大名屋敷の修理を請け負った際、泥酔して計画図を盗まれたと勘違いして大工を殺傷―も考えてみると、おかしな話に思えます。後世には、彼は精神を病んでいたから、と説明されていますが。もしかしたら、屋敷の修理計画ではなく、もっと大事な計画書だったのかもしれません。大名屋敷の大名は誰だったのでしょう。島田氏の『写楽』では、田沼意次と平賀源内の関係に着眼されていて、確かにそう考えるとあの事件は不可解です。源内が牢屋で「病死」というのも疑問が湧いてきました。とはいえ、島田氏のように「実は源内は生きていた」というのは飛躍しすぎでは、と思いました。あの牢獄(吉田松陰と同じ牢)は、処刑を待つために入れられる場所だったので、考えられるのは「自害」です。罪人を自害させたというのは、幕府側の面目が立たないので公には病死と発表したのでは、と。
 結局、小説も「平賀源内=写楽説」は断念されますが、「死んだと思われていた人が生きてたなら…」というのが許されるならば、写楽の要素を持った人物がいたことに気づきました。
 

 
 

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