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a mystery of sharaku's works 4

2014-03-16 | bookshelf
『金々先生栄華夢』 画工 恋川春町戯作 より
西洋風の遠近法で描かれた座敷画
1775年 大伝馬町三丁目鱗形屋孫兵衛板

 『写楽 閉じた国の幻』の前半で、写楽登場の1794年以前に死亡している人物が実は生きていたなら、という仮定のもと、平賀源内を調査すべく主人公は静岡まで行くのですが、結局源内説を断念します。そして行き着いたのが、江戸参府で日本橋長崎屋へ逗留していたオランダ東インド会社の商館員の1人でした。
 東洲斎写楽という絵師が謎の人物とされるのは、彼の作品とされるものが1794年5月から1795年1月の間に描いたとされる多色摺り木版画の役者絵が残っているのみで、本名など素性が一切不明でもって、他の絵師と違って蔦屋重三郎から出したもの以外、他の書肆が出した形跡もなく、下積みした様子もないからです。歌麿や北斎も豊国も、時代が違いますが広重や国芳も、最初は狂歌本や草双紙の挿絵を描くなど下積み時代があります。でも、写楽の場合は、そういったものが見つかっていません。
 また、現物はなくとも「写楽画の草双紙」という資料などもありません。同時代に蔦重の本屋で働いていたこともある曲亭馬琴は、『近世物之本江戸作者部類』や『伊波伝毛之記(いわでものき)』で戯作者や浮世絵師の略歴など(不正確さはあるが)書き記しています。『伊波伝毛之記』は出版目的でなかったのに、写楽には触れていません。直接会ったことはないかもしれませんが、存在自体は知っていたであろう大田南畝(蜀山人)が、その筆まめさで寛政年間(1789‐1800年)に『浮世絵類考』という考証本に、「写楽」の短い説明が記されてあるのみです。有名な「これは歌舞伎役者の似顔をうつせしが、あまり真に画かんとてあらぬさまにかきなせし故、長く世に行はれず一両年に而(そうして/それから)止む」という文です。その後後世の文人たちが、仕入れた情報を書き足し書き足しして、「写楽斎」という項に「俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿州侯の能役者也」という記述がなされ、クルトが研究発表した『Sharaku』以降、日本の研究者によって「斎藤十郎兵衛なる能役者」の実在が明らかになりました。
 しかし、斎藤十郎兵衛は「写楽斎」であっても、写楽斎=東洲斎写楽という実証はないのです。それ故、今なお写楽は謎なわけです。
 「写楽」が誰であるのか、私にとってそれは余り重要だと思えなくなりました。斎藤十郎兵衛だというのならそれでよいと思います。島田壮司氏の『写楽 閉じた国の幻』を読んでいて、興味を抱いたことは、「なぜ蔦重はあの役者絵を出版したのか?」ということでした。大田南畝が書き記したような余り評判がよくなかった浮世絵版画を、どんな買い手をターゲットに選んで制作したのでしょうか。商売人の角度から考えてみる必要があるのではないか、と思いました。
 そこで、平賀源内の存在です。蔦重は「時の人」源内の力を借りて、本の売れ行きを伸ばしました。しかし、源内を利用したというより、蔦重は源内を尊敬していたように思います。源内の先見の明は蔦重の新人発掘に通じますし。源内死亡から約10年後の1790年、蔦重は蔦唐丸(狂歌号)名義で『本樹真猿浮気噺』(もときにまさるうわきばなし。と読むことになっていますが、ほんきにまさる、じゃないでしょうか)という黄表紙を書きました。この話は、主人公が多種多様な新商売を考えて商いしますが、今まで人が考えもしなかった珍商売だったため、すべて失敗に終わった、という内容です。蔦重は、出版業以外にも常に新商売を考えていたのではないでしょうか。そういう発想力は、源内譲りだろうと思います。
 新しもの好きならば、当然、南蛮渡来の物にも興味があったでしょう。毎年のように日本橋本石町三丁目の長崎屋へ逗留する阿蘭陀人を見物にも行ったでしょうし、伝手を使って南蛮渡来の書物や絵など手に入れていたかもしれません。1775年鱗形屋から出版された『金々先生栄華夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』の中で、作者兼画工の恋川春町が描いた挿絵に、西洋画の遠近法が用いられています。恋川春町は、駿河の小さな貧しい藩・小島藩に仕える武士で、洋書を買えるようなお金はなかったと考えられますが、既にこの頃一般人にも洋書を見る機会があったと思われます。
 蔦重が西洋画を見て、西洋人が写実的な絵画を好むと知ったらどうするでしょう。それを新商売に結び付けるような発想はしないでしょうか。カピタンたちが欲しがった物の中には、日本を母国に紹介するための風俗画や地図も含まれていました。オランダ宿を任された長崎屋は、彼らの求めに応じるため最善を尽くしていました。また、通訳をする通司はお金のために何でもやったそうです。長崎屋への訪問者は許可された者のみでしたが、『西賓対晤』に書いてある1794年に訪問した蘭方医の中に、桂川甫周、甫謙(賢)親子、随行者に甫謙の弟・森島甫斎(森島中良)の名前がありました。森島中良は平賀源内の門人で戯作者でもあり、1785年に蔦屋から『従夫以来記(それからいらいき)』という未来記物を発表した人物です。
 彼を通して、蔦重が阿蘭陀人に浮世絵を売ろうと考えても、おかしくはないと思うのです。
 
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