唐古池に置いてあったパンフを片手に、「考古学ミュージアム」に向かいました。
奈良県田原本町にある青垣生涯学習センターにある「考古学ミュージアム」には、唐古・鍵遺跡からの出土品が展示されているのです。
このミユージアムは、3年前に建てられ公民館、図書館、ホール、音楽スタジオ、陶芸室、美術室などがあります。
ちょうど、11月17日~18日は無料の日。さっそく2階の展示コーナーへ。
ボランティアの方が見学者に説明されています。5組ほどの見学者のため、止む無く説明を受けられず・・・。
入り口の受付の女性の方から「どうぞ、写真を撮って頂いて結構ですよ。」という言葉。古代の貴重な資料に・・・大丈夫かなぁ、と思いつつ、フラッシュを焚かずに撮影。
結構、展示物が多く、綺麗に整理され陳列されている。
昭和11年(1936年)にはじめて発掘されてから約100回の発掘調査が行われ、その都度貴重な遺物が出土しています。
1917年の鳥居龍蔵氏が試掘してからの発掘の歴史が展示されています。
発掘当時使っていたカメラ、調査結果を纏めた報告書もあります。
足元のガラス越しに、発掘現場の再現が造られています。建物跡の柱の穴が再現されていて、使っていたスコップやホウキ、手袋などがそのまま展示されている。
建物の柱はケヤキです。
壁の周りには、出土品がガラスケースに入っています。
建物の柱、直径50センチほどのケヤキです。
弥生人の復元された顔もあります。この顔、どこかで見た顔です。男前です。医学的な見地も加え骨格や皮膚までも・・・さすがですね。
木製のカンザシ、勾玉などのアクセサリー。当時の女性はオシャレだったのでしょうね。
農道具の木製の鍬(くわ)、鋤(すき)の隣には狩をする道具、漁をする道具がある。
作る工程を現した銅鐸もあります。銅鐸は、銅と錫(すず)を溶かして砂岩の鋳型に流し込んで作ったものなのです。銅鐸は神が宿るものであり、不吉なものを追い払うためのまつりの道具だったとか。初めて知りました。今でも、鋳物作りの工場では同じようにして、作っているのでしょうね。
さて、部屋の中央には、当時の建物とまつりの風景を模型として造ったものです。
例の楼閣もあります。
この楼閣、中国でお墓に供えるための焼き物に見られる形だそうで、前漢時代後期に出現し、後漢時代に普及したものらしいのです。大陸の影響を受けていたのです。
弥生時代の住居や倉庫は、この唐古から発掘された土器に描かれた絵から推測すると2層・3層建の構造もあったということが新たに分かったのです。
弥生時代の人々の「ムラのまつり」の再現です。
神の力を感じ、祈り、まつりをしていたのでしょう。
唐古・鍵遺跡には、近畿各地で作られた土器が発掘されている。アチコチから集められたのでしょう。交流があったことがわかります。
土器は、その形・模様・造り方は、その時代にかなり規制されているとか。したがって、土器の形などの変化は長く続き、また腐ることもないため、多く出土しているため、時代を判定する資料になるとか。
続いては「翡翠(ヒスイ)の勾玉」です。パンフによると、このヒスイは新潟県糸魚川市の姫川流域で産出のものとか。
中空の鉄製(褐鉄鉱)のものは、ヒスイの入れ物だったのです。この褐鉄鉱(かってつこう)は、粘土の周辺に鉄分が付着して生成された自然の鉱物らしいです。
これは、ヒスイをこの容器に入れて音を鳴らす、「鳴石(なるいし)」「鈴石(すずいし)」と呼ばれ、江戸時代にあったものらしいですが・・・。
糸と針もありました。糸は火を浴びて炭化したもの。針も細く作られていて・・・驚きです。
牛形埴輪(重要文化財)
盾持人埴輪
隣の展示コーナーには、牛形埴輪(重要文化財)や盾持人埴輪(たてもちびとはにわ)があります。
これらは、明治29年(1896年)に、羽子田(はごた)古墳から出土したものとか。
家形埴輪
馬と馬曳きの埴輪
また、「家形埴輪」や「馬と馬曳きの埴輪」などが展示されています。
展示の一角に「石の斧」と「石のナイフ」の現物が触れるコーナーがあります。こんな斧で、木を切っていたとは・・・。石のナイフ、サヌカイトという石で、黒くて鋭利で確かに切れそうです。鏃(やじり)に使われているのも頷けます。
なかなか見応えのある「遺跡の出土物」です。
もう一度、ボランティアの方の説明を聞きながら見てみたいと思います。 お近くに行かれたかたは、是非お立ち寄りされればと思います。 (了)