スターアニスの 『大和路 里の光彩』

アーカイブ中心の風景写真、趣味の書・刻字など・・いろいろと楽しんでおります。

国史跡 唐古・鍵遺跡の出土品を訪ねて ③

2007-11-21 20:17:20 | 出来事

唐古池に置いてあったパンフを片手に、「考古学ミュージアム」に向かいました。
奈良県田原本町にある青垣生涯学習センターにある「考古学ミュージアム」には、唐古・鍵遺跡からの出土品が展示されているのです。



このミユージアムは、3年前に建てられ公民館、図書館、ホール、音楽スタジオ、陶芸室、美術室などがあります。
ちょうど、11月17日~18日は無料の日。さっそく2階の展示コーナーへ。





ボランティアの方が見学者に説明されています。5組ほどの見学者のため、止む無く説明を受けられず・・・。
入り口の受付の女性の方から「どうぞ、写真を撮って頂いて結構ですよ。」という言葉。古代の貴重な資料に・・・大丈夫かなぁ、と思いつつ、フラッシュを焚かずに撮影。
結構、展示物が多く、綺麗に整理され陳列されている。



昭和11年(1936年)にはじめて発掘されてから約100回の発掘調査が行われ、その都度貴重な遺物が出土しています。
1917年の鳥居龍蔵氏が試掘してからの発掘の歴史が展示されています。
発掘当時使っていたカメラ、調査結果を纏めた報告書もあります。



足元のガラス越しに、発掘現場の再現が造られています。建物跡の柱の穴が再現されていて、使っていたスコップやホウキ、手袋などがそのまま展示されている。


建物の柱はケヤキです。

壁の周りには、出土品がガラスケースに入っています。
建物の柱、直径50センチほどのケヤキです。



弥生人の復元された顔もあります。この顔、どこかで見た顔です。男前です。医学的な見地も加え骨格や皮膚までも・・・さすがですね。
木製のカンザシ、勾玉などのアクセサリー。当時の女性はオシャレだったのでしょうね。




農道具の木製の鍬(くわ)、鋤(すき)の隣には狩をする道具、漁をする道具がある。



作る工程を現した銅鐸もあります。銅鐸は、銅と錫(すず)を溶かして砂岩の鋳型に流し込んで作ったものなのです。銅鐸は神が宿るものであり、不吉なものを追い払うためのまつりの道具だったとか。初めて知りました。今でも、鋳物作りの工場では同じようにして、作っているのでしょうね。



さて、部屋の中央には、当時の建物とまつりの風景を模型として造ったものです。
例の楼閣もあります。
この楼閣、中国でお墓に供えるための焼き物に見られる形だそうで、前漢時代後期に出現し、後漢時代に普及したものらしいのです。大陸の影響を受けていたのです。
弥生時代の住居や倉庫は、この唐古から発掘された土器に描かれた絵から推測すると2層・3層建の構造もあったということが新たに分かったのです。
弥生時代の人々の「ムラのまつり」の再現です。
神の力を感じ、祈り、まつりをしていたのでしょう。



唐古・鍵遺跡には、近畿各地で作られた土器が発掘されている。アチコチから集められたのでしょう。交流があったことがわかります。
土器は、その形・模様・造り方は、その時代にかなり規制されているとか。したがって、土器の形などの変化は長く続き、また腐ることもないため、多く出土しているため、時代を判定する資料になるとか。



続いては「翡翠(ヒスイ)の勾玉」です。パンフによると、このヒスイは新潟県糸魚川市の姫川流域で産出のものとか。
中空の鉄製(褐鉄鉱)のものは、ヒスイの入れ物だったのです。この褐鉄鉱(かってつこう)は、粘土の周辺に鉄分が付着して生成された自然の鉱物らしいです。
これは、ヒスイをこの容器に入れて音を鳴らす、「鳴石(なるいし)」「鈴石(すずいし)」と呼ばれ、江戸時代にあったものらしいですが・・・。

糸と針もありました。糸は火を浴びて炭化したもの。針も細く作られていて・・・驚きです。


牛形埴輪(重要文化財) 


盾持人埴輪

隣の展示コーナーには、牛形埴輪(重要文化財)や盾持人埴輪(たてもちびとはにわ)があります。
これらは、明治29年(1896年)に、羽子田(はごた)古墳から出土したものとか。


家形埴輪

馬と馬曳きの埴輪

また、「家形埴輪」や「馬と馬曳きの埴輪」などが展示されています。



展示の一角に「石の斧」と「石のナイフ」の現物が触れるコーナーがあります。こんな斧で、木を切っていたとは・・・。石のナイフ、サヌカイトという石で、黒くて鋭利で確かに切れそうです。鏃(やじり)に使われているのも頷けます。


なかなか見応えのある「遺跡の出土物」です。
もう一度、ボランティアの方の説明を聞きながら見てみたいと思います。 お近くに行かれたかたは、是非お立ち寄りされればと思います。 (了)


吉野郡川上村の紅葉

2007-11-20 11:10:55 | 出来事
ここは吉野川に沿って走る、国道169号線の大滝ダムと大迫ダムの中間地点である吉野郡川上村人知付近。
この渓谷はいつも綺麗だ。

もう少し先の「鍾乳石の不洞窟」のレストラから向い側に見える「屏風岩」の紅葉が最高なのだが・・・。今年は、来週後半が見頃だ。
昨日は、時間が無くて、途中で折り返し、人知(ひとぢ)の渓谷を撮ってきた。





国史跡 唐古・鍵遺跡を訪ねて ②

2007-11-20 10:40:15 | 出来事

前回は、唐古池に建っている「楼閣」について説明しましたが、今回はこの「唐古池」と「発掘遺跡」について、案内します。

この池の南側にある「鍵池」の西側から楼閣絵画土器が出土し、この土器の絵を基に遺跡のランドマークとして楼閣が復元されたのです。



池のほとりに説明板があり、次のように記されています。

まずは、<唐古池>について。

奈良盆地に多くある灌漑用溜池のひとつです。
江戸時代に灌漑用として作られたもので、昭和56年に発見された唐古池と鍵池の絵図により、元禄16年(1703年)に普請されたことが明らかになっています。

<唐古池の発掘>

『唐古池の発掘は、昭和のはじめ頃、唐古の飯田松治郎・恒男親子や桜井市大泉の森本六爾らが、この池周辺で採取した遺物を学界に紹介している。
昭和11年、国道24号線敷設工事に伴い、唐古池の土砂が採取された。
これにあわせて末永雅雄博士らが発掘を行い、大量の土器や石器、木製農具などが出土した。
この成果によって弥生時代の文化が総合的に認識され、農耕の時代であることを位置づけた。
さらに、このとき出土した土器を分類し、その変遷から時代のモノサシとなる編年を確立したことも大きな成果であった。』



<唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡>

『弥生時代(BC3世紀~AD3世紀)の集落遺跡である。
昭和52年以降、継続的な調査が行われ、遺跡範囲が30haに及ぶ巨大環濠集落であることが判明した。
ムラの周囲には幅5~10mの環濠が幾重にも巡り、敵からの防御や運河の機能を担っていた。
集落の内部では石器・木製の生産や青銅器の鋳造も行い、物資の流通の中心となっていた。また、岡山から静岡までの広い地域の人々と交流しており、近畿の中心的な集落と目されている。
また、絵画土器の点数は百数十を数え、これは全国の1/3を占める。中でも、楼閣の描かれた土器は有名である。
居住区には、高床建物や竪穴住居、井戸、木器を貯蔵する穴などさまざまな遺構がみつかっています。』



<唐古・鍵ムラの弥生人>

『昭和60年12月に唐古池の東側堤防の改修に伴い第23次発掘調査が行われた。この調査で弥生時代前期の木棺墓2基が検出された。この木棺は、放射性炭素年代法から約2100年前と測定された。
埋葬されていた人骨は、分析の結果、1号墓が20代後半~30代前半で160cm以上の男性、2号墓が20代前半の男性と推定されている。
また、頭骨の左半分が残存していた1号墓の人物は渡来系弥生人の特徴が強く、復顔でよみがえった顔は細面の現代風の顔立ちであった。』



次回は、この遺跡から出土した遺物が展示されている「唐古・鍵考古学ミュージアム」を紹介します。 


吉野・竹林院群芳園の紅葉

2007-11-20 10:22:11 | 出来事
創建は聖徳太子とも弘法大師ともいわれる名刹。
大和三名園のひとつに数えられる群芳園(ぐんぼうえん)に紅葉を訪ねた。
この庭は、文禄3年(1594年)の太閤秀吉の吉野山観桜の時、千利休が作庭し、後に細川幽斎が改修したものです。
約3,000坪の庭園は、吉野の雄大な山並みを借景としたぜいたくな回遊式庭園なのです。
ここは、春の桜の季節が良さそうだ。





約3,000坪の庭園です。 




ヤドリギがあった。






カキツバタサザンカの幹。この形、面白いです。


群芳園を出て、吉野山を降りる途中で見かけた紅葉。


同上の紅葉。 

談山神社の紅葉

2007-11-19 17:33:36 | 出来事

最高の色付きはまだだと知りながら、待ちきれずに多武峰・談山神社へ紅葉狩り。
ところどころ赤くなっているのだが、もう少し鮮やかさが欲しい。
境内には入らず、反対側の高台からモミジの枝越しに撮った。
昨日から冷え込んでいる。来週末ごろから見頃を向かえそうだ。









談山神社(たんざんじんじゃ)
奈良県桜井市多武峰319
(0744-49-0001)