スターアニスの 『大和路 里の光彩』

アーカイブ中心の風景写真、趣味の書・刻字など・・いろいろと楽しんでおります。

藩札(はんさつ)か、私札か?

2007-11-24 11:45:54 | 出来事

連日、小さな古銭と格闘中です。
腐食が進み、ほとんど製造年号が分からない文字を拡大鏡を使って、見ております。
写真も撮っています。ピント合わせが大変で、目がチカチカしております。
肩が凝ってきて、首も痛くなってきました。

そんな中、今回は紙の札です。


藩札なのか、私札なのか、わかりません。

藩札(はんさつ)とは、江戸時代寛文期(1661~73)から、財政赤字の補填や幕府貨幣の不足の緩和などを目的として、各藩で発行された紙幣なのです。
福井藩札は、現存する最古の藩札といわれています。
ただ、それ以前からも伊勢や大和で私札の発行が見られたとかで、現存する日本最古の紙幣ともいわれる「山田羽書」(1610年)もこれに属するといわれています。
ここにあるもののいくつかは、私札なのかも・・・。調べてみる必要がありそうです。

当時は貨幣鋳造技術が未発達であり、土木工事などの賃金の支払いで小額貨幣が大量に必要になったときに、これらの私札が発行されたと考えられています。これらの私札が藩札への発行へとつながったと見られているのです。

つまり藩札は、幕府鋳造の貨幣との兌換を前提として発行されたのです。
藩札の発行は明治維新後まで続き、ある藩では地元特産品である「傘札やスルメ札」など、さまざまな藩札が発行されたとか。さて、大和では特産品の札があったのかどうか・・・あったなら何が? 


左・表側、右・裏側。

「松本米納会所」「慈恩寺村組」の文字が見える。 

藩は、藩札会所などを設けて藩札の発行を行っていたのだろう。
ここにある札にも会所名が書かれている。
その後も領地内外の富裕な商人が藩札の札元となり発行を行い、その商人の信用によって藩札が流通した側面もあったとか。その札もこの中にあるかも知れない。

 
「引請人」「引替所」には個人の名前もある。 

他にも、昭和の百円札、500円札、旧千円札、旧5千円札、記念500円硬貨(東京オリンピック・万博・沖縄博など)、1万円・10万円記念硬貨、造幣局発行の記念コインセット(20セット)など・・・あるのですが・・・小金(コガネ)だけが増えております。でも、決して金(キン)ではありません。
ボチボチと、整理しております。
コインホルダーや、札の整理フォルダーも揃えなければなりません。
分かり易い表示もしなければなりません。
まだまだ、これからです。
  (了)



古銭 明治~昭和初期 ③

2007-11-24 09:55:52 | 出来事
わが家にある古銭を整理しています。
額に入れて飾っていたもの、母親のタンスの中のもの、小物入れのものなど散らばっていたものを集めて、年代別などに区分しています。

私と古銭との出会いは、私が小学生になる頃、自宅の柱の背割り(干し割れを防ぐための割れ目)に50銭玉が何枚も打ち込まれていたのだ。 戦争に行った祖父の安全祈願のためだ、と聞いた。
その銀貨を一生懸命掘り出した。曲がってしまって原型をとどめていなかったが、暫くのあいだ、「私の宝物」になっていた。

明治時代は、意外と銀貨が多い。なんとなく質が高いように感じる。 昭和中期のお金は、戦争の時代を反映してか、アルミ製が多く登場する。鉄の質も悪いように感じる。腐食の進みも速い。時代を反映するものだ。


<明治時代>


上段は表側。左から、明治20年・1銭、10年・半銭、43年・10銭。 


明治24年・5銭(表・裏)


明治28年・20銭(表・裏)


明治31年・50銭と5銭(上・表、下・裏)

(兌換券)

明治22年に発行された1円の兌換券。

流通する硬貨(コウカ)を正貨として、その硬貨に代わるものとして紙幣(シヘイ)が発行された。紙幣には「此券引かへに銀貨壱円相渡可申候也」と書かれている。そのため紙幣が銀貨と同じねうちで使われていた。これが兌換券なのです。
肖像画は「竹内宿禰大臣」。成務・仲哀・応神・仁徳の4代の天皇に仕えたという伝説的な忠臣らしいです。  
紙幣は、明治18年の一円札(大黒様)が日本で最初とか。兌換券は昭和17年からはなくなっている。



<大正時代>



上段は表面。上・大正6年・10銭。下・大正9年・1銭(いずれも表・裏)

大正10年・5銭、大正7年・5厘


<昭和の初期>


上段が表面。昭和2年・10銭(上段左端)、昭和12年・5銭(上段右2番目)、昭和16年・10銭(下段左端)、昭和14年・1銭(下段左2個、アルミ製)。


昭和17年~21年(1銭・10銭・50銭)

小銭が多いです。だいたい、小銭だけは残るようですネ。



これは、銀貨だ! 金貨か? ②

2007-11-23 14:39:41 | 出来事
わが家の「古銭」を調べております。まだ、江戸時代が続きます。
一応、古い年代順にしておりますが、間違いもあると思いますが、ご容赦下さい。


「古南鐐二朱銀」かなぁ? 明和9年~文政7年(1772~1824年) 2.5cm×1.5cm×3mm。
明和9年(1772年)に、金貨単位の計数銀貨が発行されている。
表面には「8枚をもって小判1両に替える」との文言が打刻されている。南鐐とは、良質の銀を意味し、この銀貨は純銀に近いものだとか。
なお、側面には偽造防止のための小花印が打刻されている。



「文政南鐐一朱銀」? 文政12年~天保8年(1829~1837年)。 1.7cm×1cm×2mmほど。
上の半分の大きさだ。表には16枚で1両の文字が・・・。裏には銀座・常是の表示が。



「天保通寶」。天保6年~幕末頃(1835~1867年) 4.9cm×3.3cm×2.5mm。銅製。
金座で百文銭として造られたもの。鋳造銭で円形でないものはおそらく天保銭だけとも言われている。技術的にも高度に成ってきた証拠だ。 



「文久永寶」(ぶんきゅうえいほう)。幕末、鉄銭が発行されるなかでの銅銭です。
官鋳で、江戸時代に「寛永」の名が付かなかった唯一の通用銭です。基本的には表面に描かれた書体は3つあり、初めて金座・銀座の双方で鋳造されたのです。
松平春嶽、板倉勝静、小笠原長行の筆とされている。楷書が松平春嶽とされているので、一番上だろうか? 



万延小判? (壱両小判)ホンモノなのかどうかワカラナイ。
でも、壱両と刻印されていて、鈍い金色に輝いていた。(少し、黒ずんでいるが・・)ホンモノは3.5cm、3.3g、に対しコレは3.3cm、重さは計量不可。
もし、本物ならば、安政7年~慶応3年(1860~1867年)の江戸期最後の小判だ。開国後の金流出を防ぐために改鋳したものとか。純金量も慶長小判の約8分の1である。
それにしても、贋物であるにしても良く出来ている。どなたか、鑑定していただけないかナァ。



わが家の「古銭」 ①

2007-11-23 10:11:06 | 出来事
決して、古銭収集マニアではありません。
たまたま、家にあったものを額にいれて飾っていたものだが、ちょっと保管状態が悪くなってきて、取り外し、整理することに・・・。

ついでに、この古銭たちは、いつ頃のものだろうか?
調べてみることに・・・。
こんなとき、ネット検索は有り難い。造られた年代が分かる。当時の様子も分かる。
まあ、間違いもあるだろうが・・・それなりに調べてみた。



「永楽通寶」 (えいらくつうほう)11~17世紀。政府が貨幣を発行していなかった時代に、主に中国から輸入され、貨幣として流通した外国貨幣。江戸初期まで続いたのだ。渡来銭と呼ばれていた。



「寛永通寶」(かんえいつうほう)寛永3年~慶応2年(1626~1866年) 下から2段目の裏面に文様がないものは「和歌山銭(24mm)」かな? 
また、上から2列目の左側は24mm。真ん中の穴が、丸くなっているのは、絶えずヒモを通して使っていたのだろう。
鉄製、銅製、真鍮製があり、裏に波形の文様があるものも・・。
真鍮製は四文銭。当時の銭不足から波銭の四文銭が銀座から鋳造された。日本製では始めての真鍮銭である。真鍮となったことで、この銭の贋金がなくなったとか。
一番下の裏面に「足」という文字がある。1741年、銅山で有名な足尾にて鋳造された。「足尾銭」と呼ばれている。

この「寛永通寶」は、大きさもいろいろ、材質も3種類、造られたところもいろいろ。江戸時代に一番多く、造られた流通貨幣だ。




「寶永通寶」(ほうえいつうほう) 寶永5~6年(1708~1709年)徳川綱吉の時代だ。

                              <続く>


七五三記念撮影

2007-11-22 09:53:38 | 出来事
3歳と6歳になる孫娘。
昨日は、橿原市のダイヤモンドシティアルル店にあるフォトスタジオでの記念撮影へ。
パパが急に予定変更で休めなくなり、ジィさん・バァさんが付き添いに誘われての出動となったのだ。


3歳のアイちゃんなのだ。

3歳の七五三のお参りは、先日、三輪神社へ。大きな太鼓の音に耳を塞ぎ、「怖い!」と言っていたが・・・。
着物はお姉ちゃんが3歳の時に着たものだ。
嫌がらずにバァさんに着付けてもらっていた。
この3歳、「着物は好きよ。」と、なかなかお気に入りの様子。でも、ややがに股であるが・・・でも、そんなのカンケイねぇ!

お姉ちゃんの時とは、まったく逆だ。
お姉ちゃんが3歳の時、フォトスタジオ撮影では、「着物はイヤ!」と、泣いて・・大変だったが・・・。

なかなかの繁盛で、着替えのスペースは満杯状態。
ジィジは店外のベンチで待機。また、他の店へウロウロ。時々、覗きに行く。

髪の毛をアップにし(付け毛にし)、薄化粧、口紅、アイラインを入れて、見違える姿にヘンシ~ン!!
「オィオィ、そんなに変わってもイイノカナァ。」と思うのであります。
オンナの児とはいえ、恐ろしいモノです。

和服1回、ドレス2回の着替えで、二人とも楽しんでいるようだ。
今回は、3歳がメイン。ひとり写しのカット数がお姉ちゃんより多い。
何回ものポーズに応えていたが・・・最後のドレスになると、疲れたのか、爆発寸前に・・・。「もう、いいよ~!」
でも、なんとか最後のカットまで持ちこたえていたそうだ。

カメラを持ち込んで、スタジオ横で二人の晴れ姿を撮ろうとしたが、お店の方にストップを掛けられてしまった。「スタジオ内撮影禁止」の張り紙があったのだ。仕方あるまい。店から追い出されてしまった。(?)

PC画面で撮られたカットから気に入ったものを選択するのだ。娘とカミさんが選ぶ。
私は二人を連れて(に連れられて)隣の「キティちゃんの店」へ・・・・。 「がんばったから、何か買ってちょうだい。」
「ウム!?」 なんか、おかしいなぁ。オレはこのためだけに来たのかナァ?

今回のスタジオ撮影は、2時間ほどに及ぶ着付け・化粧・撮影・選択をなんとか乗り越えて無事終了。

それにしても、平日なのに次々と来られる。ママとのツーショットも多い。1歳程度の幼児も多い。
衣装もいろいろあり、小道具も揃っている。日常の家庭では撮れないシチュエーションなのだ。親心というか、親の願望が一杯なのだ。
特に記念日に関係なく、撮った日が記念日になるのだろう。

最終的に残した12カットは、1冊の写真集となるそうだ。3歳児の宝物になるのだろう。

A4の紙に、選んだ写真がプリントされていた。小さくて二人の表情があまり見えない。
来月、上旬に出来上がるという。
ジィジはあまり見てないから、早く見たいものだ。