前回は、唐古池に建っている「楼閣」について説明しましたが、今回はこの「唐古池」と「発掘遺跡」について、案内します。
この池の南側にある「鍵池」の西側から楼閣絵画土器が出土し、この土器の絵を基に遺跡のランドマークとして楼閣が復元されたのです。
池のほとりに説明板があり、次のように記されています。
まずは、
<唐古池>について。
奈良盆地に多くある灌漑用溜池のひとつです。
江戸時代に灌漑用として作られたもので、昭和56年に発見された唐古池と鍵池の絵図により、元禄16年(1703年)に普請されたことが明らかになっています。
<唐古池の発掘>
『唐古池の発掘は、昭和のはじめ頃、唐古の飯田松治郎・恒男親子や桜井市大泉の森本六爾らが、この池周辺で採取した遺物を学界に紹介している。
昭和11年、国道24号線敷設工事に伴い、唐古池の土砂が採取された。
これにあわせて末永雅雄博士らが発掘を行い、大量の土器や石器、木製農具などが出土した。
この成果によって弥生時代の文化が総合的に認識され、農耕の時代であることを位置づけた。
さらに、このとき出土した土器を分類し、その変遷から時代のモノサシとなる編年を確立したことも大きな成果であった。』
<唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡>
『弥生時代(BC3世紀~AD3世紀)の集落遺跡である。
昭和52年以降、継続的な調査が行われ、遺跡範囲が30haに及ぶ巨大環濠集落であることが判明した。
ムラの周囲には幅5~10mの環濠が幾重にも巡り、敵からの防御や運河の機能を担っていた。
集落の内部では石器・木製の生産や青銅器の鋳造も行い、物資の流通の中心となっていた。また、岡山から静岡までの広い地域の人々と交流しており、近畿の中心的な集落と目されている。
また、絵画土器の点数は百数十を数え、これは全国の1/3を占める。中でも、楼閣の描かれた土器は有名である。
居住区には、高床建物や竪穴住居、井戸、木器を貯蔵する穴などさまざまな遺構がみつかっています。』
<唐古・鍵ムラの弥生人>
『昭和60年12月に唐古池の東側堤防の改修に伴い第23次発掘調査が行われた。この調査で弥生時代前期の木棺墓2基が検出された。この木棺は、放射性炭素年代法から約2100年前と測定された。
埋葬されていた人骨は、分析の結果、1号墓が20代後半~30代前半で160cm以上の男性、2号墓が20代前半の男性と推定されている。
また、頭骨の左半分が残存していた1号墓の人物は渡来系弥生人の特徴が強く、復顔でよみがえった顔は細面の現代風の顔立ちであった。』
次回は、この遺跡から出土した遺物が展示されている「唐古・鍵考古学ミュージアム」を紹介します。