スターアニスの 『大和路 里の光彩』

アーカイブ中心の風景写真、趣味の書・刻字など・・いろいろと楽しんでおります。

當麻寺に秋を訪ねて (11/13)

2007-11-15 19:46:23 | 出来事

當麻寺は、二上山(にじょうざん、ふたかみやま)の麓、奈良盆地の西端で大阪府に接し、奈良県葛城市当麻地区にあります。
當麻寺は、1250年前創建の「當麻曼荼羅(たいま・まんだら)」(本堂)を本尊とするお寺です。



山門を入ると境内が広がり国宝の梵鐘が迎えてくれます。
本尊を祀る本堂、金堂、東塔、西塔などの諸堂や、僧の住坊などの建物が並んでいます。

中之坊は、當麻寺最古(7世紀末)の塔頭で高僧が住房としていた寺院です。この中にある庭園が、大和三名園のひとつ「香藕園(こうぐうえん)」なのです。桃山時代のもので国の名勝・史蹟となっています。





東塔を借景とし心字池を中心とした桃山期の名園です。極端に低い土塀が珍しく、絵になるのです。



また、庭内には、江戸初期の茶室「丸窓席」( 国・重文)があって、直径約1.8メートルにも及ぶ大円窓が見事な名席となっています。

當麻寺では、各僧坊の裏庭に牡丹(ぼたん)が植えられています。中之坊をはじめ、護念院、西南院、千仏院、宗胤院など数ヶ寺で見られ、4月下旬から5月のはじめにかけて見頃となるのです。



西南院(當麻寺の塔頭<たっちゅう>)の庭園も訪ねてみました。先ほどの中之坊の拝観料500円とは別に300円の拝観料が必要です。




でも庭園は、江戸中期に造られた池泉回遊式庭園で、山すそを利用し、中央に出島(亀島)、その東側に鶴島の石組みを配置されている。天平建築の西塔を借景に、静かな佇まいである。



境内には、キャンパスを広げスケッチする人々がいます。塔に向かっては、どの角度からも絵になる構図なのです。
色付いた庭園を散策しました。見事な庭園ですが、紅葉はもう暫くのお預けです。12月の初旬が見頃でしょうね。



相撲のルーツ・・野見宿禰(のみのすくね)の塚を訪ねて

2007-11-15 08:47:17 | 出来事
先日から相撲のルーツ地を巡っています。

野見宿禰(のみのすくね)と當麻蹶速(たいまのけはや)の天覧相撲が行われ、結果として野見宿禰が當麻蹶速に勝って(殺して)勝負がついたのです。
天皇は蹶速の土地を没収して、宿禰に与え、宿禰はこのまま天皇に仕えたといわれています。

では、その後の宿禰はどうしたのでしょう。現場に出かけて調べてみました。

当時、天皇の親族が亡くなり造った陵(墓)に葬る際、生きた人間を陵の周囲に埋めたのです。
生き埋めですから、凄かったのでしょう。あまりの惨状に天皇はこの殉死を禁止しました。
その後、皇后が亡くなった時、宿禰は生きた人間ではなく人や馬の形をした埴(はに)を陵墓の周囲に建てる事を提案したのです。
天皇はこれを採用し、これがのちの埴輪(はにわ)と呼ばれるようになったのです。
この功績によって宿禰は、「土師の職」に任じられました。
まさに宿禰は、相撲の神さまであり、埴輪の神さまであったと言われる由縁だろう。

さて、この野見宿禰の墓がある桜井市出雲(三輪から初瀬に向かう途中にある)にある十二柱神社(じゅうにはしらじんじゃ)を訪ねました。
鳥居の横、境内入り口の一角に五輪塔が建っています。
先日、葛城市当麻にあった蹶速(けはや)の塚を訪ねた時の五輪塔と同じ形・大きさなのだ。これはどういうこと? 勝ち負けに関係なく両者の「相撲の開祖」を称えての建立だったのだろうか? これだけ立派なものなのだからおそらく天皇の命により造ったのでしょう。

この神社の境内には、顕彰碑や解説の案内板などがあります。よく解ります。

まずは、野見宿禰が祀られている「十二柱神社」のこと。 祭神は「神世七代の神」「地神五代の神」の12の神が祀られています。
そして村の長老談として、次のように書かれていました。

『十二柱神社は「出雲ムラ」の村社。
大昔は、神殿がなく、「ダンノダイラ」(三輪山の東方1700メートルの嶺の上にあった古代の出雲集落地)の磐座(いわくら)を拝んだ。
明治の初めころまで、年に一度、全村民が「ダンノダイラ」へ登って、出雲の先祖を祀り偲んだ。一日中、相撲をしたり遊んだり、食べたりした。(出雲ムラ伝説)』

また、野見宿禰顕彰会の石碑に刻まれた銘文には、今までになかった宿禰説が書かれていたのです。

概略は、
『・・・「日本書紀」には宿禰を出雲国より召すとあれど、考古学的には4世紀前半の物語であり、歴史地理の視点から日本最古の大神神社の山裏にあたる出雲村より招かれたのではないかと、相撲博物館員の史家池田雅雄先生が20余年前に新説を提唱。村から宿禰、蹶速の相撲跡伝承地へ峠越えして僅か5キロ。紀に曰く「即日、宿禰を召す」の記事に符号する。また、村には明治初期まで宿禰の大古墳あり、その塚跡にあった壮大な宿禰塚の五輪塔も現存する。さらに宿禰を顕彰する思念から村社狛犬の台座の台座に力士姿八人を建造した江戸時代の先祖の願いと、古老の語る宿禰生誕地伝承を再確認し、ここに改めて相撲開祖・野見宿禰顕彰碑を建立し・・・・』とある。

つまり、野見宿禰とは島根県出雲からこの大和(桜井)の出雲に来て既に住んでいたか、もともとこの大和の出雲に住んでいたのか・・・。ロマンが溢れます。
そもそも「出雲」という地名がクセモノです。
これ以上は、分からないため専門家に任せることとします。

別の案内看板によると、もともと宿禰の五輪塔は、現在地の西南約150mのところ(出雲村大字太田小字塔)にあった。直径20m以上もある豪壮な塚の上にあったとか。鎌倉時代のもので、高さ2.85m。
大昔から近在の人々や力士が常々お詣りしていたのだろう。
明治16年(1883年)の国道165号線建設で移転を余儀なくされたのです。
塚を壊したときには、勾玉や埴輪、直刀、土器などが、また昭和42年には縄文土器や弥生式土器、須恵器などが出土しているため、縄文の時代から人々が住んでいたと推察されるのです。

野見宿禰が人物の埴輪を陵墓に埋めることを進言し、職人を出雲(島根県?)から呼び寄せ、この地で作らせたのです。
その歴史を受け継いでいるのが、この地の伝統工芸品「出雲人形」の原型なのです。
明治のはじめまでは、「出雲邑(ムラ)」あげての土人形作りをしていたのです。
この流れを汲む「出雲人形」づくりは、明治後期からスタートしたとか。今はこの出雲地域では1軒のみ。水野窯の看板を掲げるお宅を訪ねました。

『祖父の代に、地元研究家の発案で、当時途絶えていた人形作りの復活の声が上がり、自宅屋根裏から出雲人形の型などの道具や人形が出てきたため、復活したのですよ。予約注文で造っている程度で・・・。来年の干支の人形の注文が多くて・・・。』と云われていました。

もみがら焼き製法で埴輪説話と結びつけて「水野家流」の「出雲人形」を作られたのだ。現在は、お孫さんの奥さんが後継者になっておられる。
ここでは買うことができず、残念!
奈良市にある「なら工芸館」にて展示されており購入できるという。
素朴な中に、華やかな色彩の人形だ。古代の埴輪も極彩色だったのだろうか?


出雲の村の旧道にあった「十二柱神社」への入り口。



入り口のすぐ横に建つ、「野見宿禰の顕彰碑」。上が正面、下が裏面。


「十二柱神社」の正面。この右側に下記の宿禰の「五輪塔」が建っています。



宿禰の墓である「五輪塔」。負けた蹶速(けはや)の五輪塔と同じ形・大きさなのだ。これはどういうこと?


野見宿禰が祀られている「十二柱神社」。



境内の入り口に建つ狛犬。両脇の狛犬を支える8体の相撲取り。この相撲取りの姿勢(シコを踏む姿?)がそれぞれ異なる。




「十二柱神社」のイワレが紹介されている。出雲邑(ムラ)の伝承として村の長老の言葉が・・・残されている。


「出雲の土人形」が原型となっている「出雲人形」を造っている窯はここ1軒だけ。その昔は、この地域で10軒の窯元があり「出雲の土人形」が造られていたとか。今の「出雲人形」は素焼きのうえに綺麗な色付けがされている。素朴な中に華やかさがある。