スターアニスの 『大和路 里の光彩』

アーカイブ中心の風景写真、趣味の書・刻字など・・いろいろと楽しんでおります。

天誅組の足跡を訪ねて ⑤

2010-01-13 21:28:52 | 志に生きた天誅組・・・終焉の地を訪ねて

天誅組39名は、堺で泊まり翌朝(8月16日)、堺市にある仁徳天皇陵の横を通り西高野街道(現在の国道310号)を南に進みます。
途中、大阪狭山市・池の原から狭山池の北側にあった「狭山藩陣屋」(現・東池尻3丁目にあったが、今は遺構) 藩主・北條氏恭に協力を要請。「甲冑10領。銃15筋。ゲベール銃10挺。米塩若干」を差し出す約束を取り付けている。

狭山から河内長野市の廿山(つづやま)を経て、錦部郡甲田村(現・富田林市甲田)にある水郡(にごり)邸に到着。
かねてから決起の盟約を交わしていた大庄屋・水郡善之祐(にごりぜんのすけ 38歳)は、事前に菊の御紋の旗と幟(のぼり)を用意して、河内勢12名と合流。
水郡善之祐の長男・英太郎(13歳)、水郡家とは親戚の富田林村豪商・仲村徳治郎(25歳)、新家村庄屋・鳴川清三郎(39歳)、向田村豪農・森元伝兵衛(29歳)、一行の弁当100人分を用意した錦部郡長野村・庄屋 吉年米蔵(よどしこめぞう 49歳)、甲田村・和田佐市(31歳) 長野村医師・内田耕平(23歳)、岡山藩・藤本鉄石(48歳)など。

加わった河内勢は、天誅組の4分の1以上の勢力を占め、直前の準備、人足の調達などを受け持ち、このメンバーなしでは挙兵は無理だったかも・・・。


▲国道170号大阪外環状線。宮甲田町、水郡邸の西側500mほどに「錦織神社」がある。鳥居をくぐり川西小学校の校舎裏の参道を少し歩いた左側に「天誅組河内勢記念碑」があり、参加した志士の名前を彫った石碑がありました。竜神で紀州藩に降伏した河内勢であるが、水郡善之祐の長男・英太郎を除く全員が京都に送られ刑死したのです。


▲和田佐市の碑もありました。天誅組伍長として参戦。水郡父子、森元伝兵衛と同じ甲田村の出身でした。


▲鳥居から300mほど歩くと「錦織(にしこり)神社」。錦織神社のあたりから南へ河内長野市を含む地域が「錦織郡」で、この神社は一の宮であった。本殿は天平18年(1363年)の創建。千鳥破風と唐破風を持つ特異な入母屋造り、重要文化財である。
「水郡(にごり)」と「錦織(にしこり)」・・・・何故か発音が似ている。どうやら、錦織神社の宮司が水郡さんになられたとか・・・。納得・・です。


▲大庄屋・水郡(にごり)善之祐の屋敷を探したのだが・・・水郡善之祐の菩提寺・養楽寺の3軒隣にあった「水郡(にごり)」という表札のあるお宅を見つけた。ところが府指定史跡として残っている徳川初期の建築ではなく・・・・・今日的な個人宅であった。ご近所の方に聞いたが、おそらく親戚筋に当たるお宅なのだろう。
事件後、水郡家は庄屋の地位を奪われ没落したが、現在は英太郎さんの子孫が住まわれている。
先に立ち寄った「錦織(にしこり)神社」でも大庄屋・水郡邸の場所を聞いたが、養楽寺の隣と聞いたので・・・・もっと細い路地の中にあるのだろう。


▲養楽寺です。水郡家の菩提寺で、境内には天誅組に参加した森元伝兵衛の墓があります。入り口が閉ざされていたため入れませんでした。

16日の夜中に水郡邸を出発。途中、河内長野市・三日市町に着いたのは翌午前2時頃。油屋旅館で休憩を取る。
この三日市は古来、高野詣の宿駅として栄えた地で、大坂八軒家から8里、高野山へ8里のところである。河内木綿の綿作と加工・取引の中心で問屋も繁盛していた。大坂・堺から大和・紀伊などへの交通が便利で、志士が身を隠し、各方面にも格好の場所であった。


油屋を8月17日午前8時頃出発し、河内長野市の東端に位置する「観心寺」に着きます。
ここで、後から来た甘南備村・松崎万太郎(23歳)と岡山藩・藤本鉄石(48歳)と淡路国福良・福浦元吉が合流します。
後村上天皇陵前に拝礼し水盃を交わし、楠木正成の首塚前で菊の御紋を翻し、戦勝祈願の祈祷を行います。

『建武中興の業は、公の先唱によりて成りぬ。今また我ら一統、復古の先駆たらんことを期す。仰ぎ願わくば、是に英霊の冥助を垂れ給はんことを』



▲観心寺は701年に役小角(えんのおづぬ)によって開かれ、元は雲心寺と呼ばれていたが寺号を「観心寺」に改称したのは808年、ここを訪ねた弘法大師です。


▲建掛塔。その名前の通り建て掛けの塔です。正成が報恩のために三重塔建立を請願するのですが、完成までに戦死。そのため中断して仮の屋根(藁葺き)の状態で残っています。


▲奥に見えるのは国宝・金堂。手前の石は弘法大師が七星降臨を礼拝された石(礼拝石)です。


▲楠木正成の首塚があります。

▲その広場の対面に天誅組の石碑が建っています。

▲この広場で戦勝祈願を行ったのです。


大阪府・和歌山県・奈良県の県境近く金剛山(1125m)を登ります。
忠光ら本体は千早峠へ。別働隊は石見川から大沢峠へ・・・。どちらも難関です。


▲観心寺から千早峠を登っていく途中の山並みです。ほとんど車が通っていない現在の国道310号。この日、対向した車は2台だけ・・・。千早峠を越える時は雪がちらつき・・・杉林には雪が積もっていた。夜には凍結して通行禁止になるのだろう。今でこそ舗装道路だが・・・当時の峠を歩くのは、大変だったに違いない。一歩上がっては止まり、2歩進んでは休んで・・・・。


▲千早峠から五條市街を見下ろすと・・・このような景色です。今日は、雪がちらつくあいにくの天候で・・・。

千早峠を越えていよいよ大和へ・・・・。峠を降りた一行は、五條・岡八幡宮(現・八幡神社 五條市岡町。五條代官所まで3km)で先に来て準備をしていた同志と合流した。
陣容を整えると、8月17日夕方に五條代官所に向かったのです。

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2 コメント

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Unknown (りぼんのmama)
2010-01-14 01:34:48
こんばんは~
一気にまとめ読みさせて頂きました。
引き込まれて読んでいました。
流れを追って記事になさって、写真がまた良いですね~。
かつての天誅組の志が伝わってきましたよ~。

(私にとっては初めてなのですが、NHKの大河ドラマ見てます。
初めは福山君が出るので見てみたのですが、
ドラマのファンになり、主人と一緒に見始めています。)
返信する
Unknown (なりちゃんじいじ)
2010-01-14 20:23:50
おばんです!
綿密な現地調査、感心します。
「天誅」という言葉は聞いたり、見たりしていますが天誅組のドラマ、映画などはあったか?記憶にないです。やはり竜馬なんでしょうか?
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