<丹生川上神社下社の神官・・・橋本若狭の働き>
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橋本若狭の策は、
①下市の広橋、栃原、樺ノ木(かばのき)に砦を築くこと。
②銀峯山(白銀岳)に本陣を構えること。
若狭の手配により、銀峯山・波宝神社の陣所には幕を張り、かがり火を焚き、いかにも大軍が居るかのように見せかけたのだ。
▲県道20号線・十日市の辻から林道を登ること6km。銀峯山(614m)の頂上に波宝神社がありました。柿の梢越しに、北側には五條の町、西側には和田村、東側には下市村、南側には十津川連山が一望できます。
この橋本若狭は、銀峯山の隣、下市にある丹生川上神社下社の神官で、当然地元の地理に詳しく勤皇の志篤く、8月20日に天誅組に参加。なかなかの知恵者だったようです。
各藩も、9月8日から一斉に行動を開始。栃原・樺ノ木峠には彦根藩が、広橋峠には郡山藩と小泉藩が攻めてきます。銀峯山の周りで二昼夜に及ぶ戦いとなります。
▲波宝神社の周りは切り立った崖。藩の追っ手を寄せ付けることは出来ません。下の方にテレビ中継所の鉄塔が見えます。天誅組もこの頂上までよく登ってきたものだと感心するばかりです。
天誅組の広橋峠陣にも郡山勢2000人が押し寄せてきます。若狭は、広橋峠の頂上にある法泉寺で陣頭指揮を執り、銃撃戦を尽くすものの、背後から攻められ、寺に火を放ち退却。それぞれの陣から銀峯山に逃げ込んできます。
▲広橋峠は旧道にあり、今は土地の人達が通る程度で、新しく出来た309号線の上にある。広橋梅林が広がる地域である。
▲広橋峠の頂上に法泉寺があった。橋本若狭が陣を構えたところだ。門前まで行くと犬に吠えられ・・・退散。
▲この広橋峠の北側も絶壁だった。
▲栃本村・永全寺。
▲銃撃戦の弾痕がこの永全寺本堂の白壁に残っているということだったが・・・門が閉まっており観ることが出来なかった。
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天誅組本陣は、いよいよ銀峯山に追い詰められます。<o:p></o:p>
彦根勢の大砲の砲撃を受けるが、何とか持ちこたえます。
広橋峠の法泉寺から逃げた若狭は、丹生村長谷の自宅に帰るが、翌朝、彦根勢に襲われる。それでも逃げ、村内の北川家に逃げ込み裏庭から川に飛び込み逃げる。彦根勢は北川家を燃やすがそれが飛び火し丹生川上神社及び付近の民家を燃やすつくすことになる。
▲訪ねた丹生川上神社下社の由緒書きには、焼失の事は書かれていなかった。
▲社務所の柱に「天誅組史跡・橋本若狭旌忠碑」の案内が掲げられるのみ。その奥には、橋本若狭の碑が建っていた。
この丹生川上神社の火の手は、銀峯山の本陣からも見え、森下幾馬らが駆けつけた。そして彼らを集め、下市にあった彦根藩・陣営の焼き討ちを決行するのです。
30名が二手に分かれ、陣屋を襲撃。さらに家々にも火を放ったのです。これが「天誅の大火」と呼ばれるもので、下市の街400軒以上を焼き尽くすのです。
また、この時、郡山勢の加勢を食い止めるため吉野川に掛かっていた木製の「千石橋」を焼き落とすのです。
若狭らは、武器などの戦利品を持って引揚げてきたのです。
▲木製の千石橋は、天誅組によって燃やされることに・・・。でも、天誅組のことは書かれていない、何故?
▲明治時代には、鉄橋になっています。
▲現在の「千石橋」。
▲下市町役場の上から眺めた現在の下市の町並み。400軒が燃えたとも言われている。もっと左端の吉野川近くかな?
この「天誅の大火」で、和歌山・津・彦根・郡山の四大藩の申し合わせであった「9月10日総攻撃」は、一旦中止となった。彦根・郡山藩が出撃不能になっていたのだ。
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この若狭の戦略・・・下市の大火は、味方の仕業だと知らなかった忠光は、再び大日川陣に帰ってしまったのだ。大日川陣に藤堂税が攻めてきたとのことで、ここを落とされると天辻への退路を断たれてしまうと思ったのだろう。
もし、忠光が下市の大火は若狭らの仕業と知っていれば、下市に突っ込み、河内に逃げ切れていたかも・・・・しれないが・・・。
▲下市中央公園に、伴林光平が下市の大火を詠んだ歌碑がありました。『吉野山、峰の梢や いかならむ 紅葉になりぬ たにの家村』
歴史絵巻ですね、丹念に史跡を追いかけるスターアニスさんに感心します