スターアニスの 『大和路 里の光彩』

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天誅組の足跡を訪ねて ⑥

2010-01-14 20:51:30 | 志に生きた天誅組・・・終焉の地を訪ねて

何故、五條代官所を襲ったのか?>

文久3(1863)817日、大坂・河内から一気に金剛山を越え、大和五條の「岡八幡神社」に既に来ていた同志と合流。いよいよ五條代官所に突撃します。



▲五條・岡八幡神社です。千早峠からの隊と、大沢峠からの隊が合流し、陣容を立て直したのがこの神社でした。


天誅組が五條を挙兵地に選んだのは、
① 代官所所轄の南大和5405ケ村は75千余石天領であったこと。
② 大和平野から紀州、大坂平野に通じる交通の要衝であること。
③ 勤皇の地として名高い十津川を背後に控えていること。
④ 勤皇僧を多く持つ高野山も近いこと。
⑤ 更に、南側には山岳多く、守るに易く、攻めるに難しい地形であることなど、有利な条件であったことが挙げられます。

また、この地に森田節斎という儒学者がおり、吉田松陰をはじめ多くの人物たちが節斎を訪ねてくるなど、その影響もあったという。


▲五條史跡公園に再現された「五條代官所の長屋門」。


▲史跡公園にも「天誅組」についての説明看板があります。


▲現在の五條市役所は、代官所の跡地です。その案内版と石碑がありました。


陣屋は土塀で囲まれ表門と裏門があり、中には代官所のほか元締長屋、手代長屋、侍長屋などの建物がありました。(五條市役所の駐車場横に『五條代官所跡』の石碑があった。)

天誅組が代官所を包囲したのは、夕方4時頃。

中山忠光公は、馬にまたがり裏門前で構えます。表門の左側からはゲーベル銃隊の池内蔵太、右側からは和銃隊を率いた半田門吉が突入。

突入時の様子を会津藩士・広沢安任の記録によると、
『日まさに暮れんとするとき、にわかに陣太鼓の声のごときを聞きて、館中、皆おもふ、村民たわむれに仁輪加(即興的茶番野外芝居)をなすなりと。仁輪加は村戯の名なり。館前にいたりて声をあげ、砲を発し、前後より乱入し言語を接するにいとまなく、ただちに刃を加ふ。館中の史智走る。源内は時に一刀をおび、歩して園をめぐる。乱を聞き室に至らずして殺さる。妻子はとらへてこれをつなぐ。役人あるいは小刀を抜きて防ぎ、あるいは走る。殺されるもの五六員』

陣太鼓の音を「仁輪加」と思っている・・・とは、代官所の役人はのんきなものです。

突入に当たって、五條陣屋への使者に立ったのは、松本奎堂なのだろうか? 奎堂だとする説が多いが・・・。

代官の鈴木源内に対し 『我々は皇軍御先鋒である。この地を差し押さえることになった。代官所と所管の村々を速やかに引き渡すように・・・』 と要求したが、代官は拒否。

すぐに代官と5名の役人を討ち、残り10数名を捕らえ、所内の武器、書類、物品を運び出し、建物に火をつけ焼き払った。

生駒郡斑鳩町に住んでいた志士の一人、伴林光平(天誅組・回想記録「南山踏雲録」筆者。捕われ獄中で記載)は、手紙で参加を求められ、五條に駆けつけたが既に遅し、突撃は終わっていた。
櫻井寺の本堂前の水盤に板戸が掛け渡され、その上に鈴木源内の他4名の首が5つ、血にまみれたままさらされているのを見たのだ。


討ち取った中に、その場に居合わせた黒の喪服を着ていた按摩(アンマ)の嘉吉が巻き添えをくって命を落とした。天誅組からのお詫びとして嘉吉の妻に葬料として「白米5斗と5両」を与えている。

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名足らずの陣屋は1時間ほどで陥落した。
役人が逃げ延びたのはわずか5名。
役人で取次役の木村祐次郎は足に負傷して途中まで逃げ、近くの庄屋で手当てを受け、更に助けを求め寺に匿われたが、浪士の捜索に耐えられず、村人に「これ以上、お前らに迷惑をかけては相すまぬ。どこへでも出してくれ」と、きっぱり言い切った。さすが武士だ。
翌日、首をとられることに・・・。


▲天誅組本陣が置かれていた櫻井寺。



▲櫻井寺の境内にある、
鈴木源内の首が洗われたとされる手水鉢です。

代官所より300mほど東にある「櫻井寺」に天誅組本陣が置かれた。
寺の門には『五條 御政府』の看板が掲げられた。
村には布告文高札などが立てられた。
『此の者ども、近来違勅の幕府の意を受け、専ら有志の者を押し付け、朝廷幕府を同様に心得、僅か三百年の恩義を唱へ、開闢以来の天恩を忘却し、然も、これがために皇国を辱しめ、・・・・・略・・・亥八月十七日』


▲旧櫻井寺本堂の柱に、天誅組が槍の尻でつけた傷跡が残っています。本堂の床下に置かれていました。

櫻井寺本坊で、一軍の役割が発表されている。
主将(中山忠光)・総裁(藤本鉄石・松本奎堂・吉村寅太郎の3名)・御用人・監察・銀奉行・小荷駄奉行(水郡善之祐)・武器取調方・合図係・兵糧方・勘定方(平岡鳩平)・同兼薬役・記録方(伴林光平)・執筆方・小姓頭・小荷駄方・下役・兵糧方下役・槍一番組長・同兼薬役・砲一番組長など・・・。


主将・中山忠光公(19
歳)です。


▲3名の総裁。左から藤本鉄石(48歳)、松本奎堂(44歳)、吉村寅太郎(27歳
) (五條・民族資料館)

朝廷直轄地とし、代官所に代わる新しい政治を行い始めた。
人心安定・諸藩への呼びかけ・軍資金調達と募兵を行った。近日、天皇の大和行幸(大和へ天皇が皇居から外出すること)があることを知らせ、祝いに秋の年貢を半減すること、天誅組に加わる者には苗字帯刀の許可などを布告している。

また、村人の訴えによって、悪徳の庄屋や豪商の家を取り壊したり献納をさせたりしている。代官所の公金も取り押さえている。


▲五條・民族資料館には、天誅組に関するいろいろな資料が展示されています。


▲中山忠光公の借用書です。軍用金として100両・・・・と書かれているが・・・。(五條・民族資料館)

志士の那須信吾らは高取藩に赴き、武器の献納と行幸のときの兵を集め、迎えるように強要。
高取藩では、槍30・銃20・馬2頭・米100石の提供を約束しているが・・・・。



ところが、8月19日(現在の10月1日)、天誅組にとって運命の日を迎えるのである。

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