スターアニスの 『大和路 里の光彩』

アーカイブ中心の風景写真、趣味の書・刻字など・・いろいろと楽しんでおります。

最古の地鎮具が出土した藤原京跡にて

2007-12-03 08:57:15 | 出来事

11月30日の朝刊に「須恵器に入れられた富本銭・水晶、9点づつ」が出土したと報じられていた。
日本書紀の記述を裏付けるものだと・・・。

毎日新聞・記事(11/30朝刊)。 

では、どこで出土したのか、現地を見に行きたくなった。
ここは大和三山に囲まれたちょうど真ん中。古代の首都「藤原京」の跡として広がるところだ。


左手前のなだらかな低い山が「天の香具山」だ。その奥は「談山神社」のある多武峰方面だ。

広い敷地では、少年野球チームが2コート使って試合をしている。家族連れが、犬の散歩を、ジョギングを、サッカーを、ボール投げを、楽しんでいる。

遠くに見えるのが「畝傍山」。広い敷地では子供野球の試合が・・・。

なにしろ広い。その範囲は東西5.3㎞、南北4.8㎞という敷地であったことが判明している。奈良の「平城京」をもしのぐ規模であったようです。


持統・文武天皇の藤原宮があったと示される石碑が建っている。

天武天皇が計画し、皇后の持統天皇が完成させ、694年に遷都したのです。
日本で最初の本格的な都で、唐の長安城を模して建設されたものとか。 その後710年に平城京(奈良市)に遷都されるまで、文武・元明天皇の三代、16年間、皇居がおかれていたところなのです。


太極殿跡です。

太極殿跡といわれる場所は、こんもりとした樹木が植えられ、その中央に石碑が建てられています。


柱の跡にモニュメント? 太極殿跡の向こうには円錐形の「耳成山」が見える。 

また、離れた所々に赤く塗られた柱の形をしたモニュメントが建ち並んでいます。これは恐らく当時の建物の柱の位置を示すものだろう。

犬の散歩に来られた方に、出土した場所を尋ねた。
「ちょうど、太極殿前の南門の近くだったと思うよ。そうそう、今はまだ杭が打たれていて・・・、でも既に埋め戻されたのでは・・・」とのこと。

現場に向かうと、そこは綺麗に整地されていた。その方によると「1ケ月前に、発掘調査は終わっていたはずだよ。」とのこと。


発掘調査され、須恵器に入った富本銭・水晶が出土したところだ。既に埋め戻されていた。

新聞によると、出土した「須恵器に入れられた富本銭と水晶」は、宮殿建設の無事を祈る地鎮の道具とみられるという。
周囲に四つの柱穴もあった。宮殿の地鎮跡としては最古といい、日本書紀の記述にも一致する。


このような形で埋められていたのだ。


奈良文化財研究所は、四隅に青竹を立てるなどする現代の地鎮祭のルーツだろうとされている。
なるほど、1300年も前から、地鎮祭をやっていたのだ。

時々、この藤原京跡の横を車で通る。道路拡張工事の際も、発掘作業が行われていた。
もし今度、何処かで発掘工事が行われれば、覗きに行くことにしよう。埋め戻される前に・・・。


太極殿跡の向こうには、「耳成山」が見える。


詳細は、「奈良文化財研究所」または「橿原ネットワーク」をご覧下さい。

なお、出土物の写真は、「朝日新聞記事」より引用しました。


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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (なりちゃんじいじ)
2007-12-03 11:55:25
こんにちは
新聞記事を読みました。が素養のないものには何のことかさっぱりわかりませんでしたが、スターアニスさんの記事で少しは身近になったような
地鎮祭とは、今も大昔も人の心の奥底は同じものがあるんですね
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Unknown (のび太)
2007-12-04 08:51:47
古代の首都「藤原京」の跡・・・当時の権勢が偲ばれる広大な規模ですネ。 持統天皇が詠んでいる有名な「天の香具山」は、意外に低い山、もっと高い山と思ってました。 のび太が、数日前にUPした古民家の喫茶店に、何故か「春過ぎて~」の和歌が掲示されてました。
返信する
Unknown (よりりん)
2007-12-04 11:49:01
この新聞記事みて、「ええ~!!」って思ったんですよ。
だって、前日、叔母を案内して談山神社のあと、藤原京跡にいったのに、そんな発掘見てないし~って思ったら、なーんだ、やっぱり発掘は、もう終わってたんですね(苦笑)。

しかし、記事を見て出かけるスターアニスさん、すごい!!
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