スターアニスの 『大和路 里の光彩』

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天誅組の足跡を訪ねて ④

2010-01-13 14:32:35 | 志に生きた天誅組・・・終焉の地を訪ねて

<天誅組・軍令書・・・『一心公平無私』>

堺に向かう船上で、一行はおのおの髪を切って海中に投げ入れたという。その決起のほどが窺がえる。

そして総裁の一人である松本奎堂 (33歳・刈谷藩士。18歳のとき槍稽古中に左目を失明。江戸藩塾で教授を勤める。のち名古屋で開塾。その後、京都に移り尊皇攘夷志士たちと交わる。天誅組の軍令の起草を行う) は、船上で「天誅組軍令書」を読み上げている。

軍令の一項は次の通りです。
『一、この挙、元来武家の暴政、夷狄の猖獗(しょうけつ)によって庶民の難苦限りなく候を、深く宸襟(しんきん)を悩まされ候こと。傍観に堪えず、やむことを得ざるところなれば、たとい敵地の賊民といえども、本来御民の事なれば、乱暴狼藉、貨財を貪り、婦女子を奸淫し、猥りに神社、堂宇等放火致し、私に降人を殺すにこれあるまじき事』

これらのことが14項にわたって、示されている。

そして最後の14項目には、
『一、一心公平無私、土地を得ては天朝に帰し、功あらば神徳に属し、功を私することあるべからず。我らもしこの儀に違い候はば、・・・・・(あと略)』と示されています。
挙兵の精神を示し、『一心公平無私』という言葉が天誅組のすべてを語っているといえます。


▲ペリー提督横浜上陸の図 (横浜開港資料館所蔵)。
1853年(嘉永6年)6月3日浦賀に入港。開国を迫る大統領書簡に対応するため幕府内だけの意見では危機を乗り切れないと判断し、朝廷・外様大名などの意見も聞くことに・・・。これをキッカケに幕府政治に関与していくことになり、特に国の将来を案じたのは中国・四国・九州方面の藩の下級武士やそれ以下の身分の志士達であったのです。

<誰が挙兵を企てたのか・・・>

わずか39名で拙速に挙兵したのは何故なんだろう。
確かに、河内勢や五條からの支援を得ているが、吉村寅太郎は「基を開くは浪士の任なり」といい、挙兵倒幕は大名の手では行われないから、その口火を切るのはわれわれ浪士でなければならない。ここで天誅組挙兵の意図をハッキリ言っている。藩権力を利用できない脱藩浪士の力で出来る唯一の方法だったのだ。

そして、一般的にはこの挙兵の作戦を立て、指図したのは中山忠光公と吉村寅太郎だと言われているが、実は裏側に居た中山忠能の兄で忠光の叔父にあたる「中山忠伊(ただこれ)」という人だとか。でもこの人は中山家の養子で、元は120代仁孝天皇の弟、さらに孝明天皇の叔父にあたる。
では、何故このような人が・・・となるのだが・・・。

長仁親王(のちの忠伊)の父上、光格天皇は、ご自分の父に尊号を贈りたいと幕府に相談するも、その返答が4年間も放置され挙句はダメだとされる。そしてこの問題で動いた中山愛親(なるちか)(忠能の曾祖父)を処罰。これをきっかけとして朝廷では倒幕の声が高まり、愛親の子忠伊らが軍資金として金貨を密造、長州で倒幕を扇動することに・・・。
しかしながらこれは失敗に終わり忠伊は自刃。
でも、光格天皇はなお倒幕をあきらめられず、退位後の文政3年(1820年)17歳になった長仁親王を中山家の養子にして、自由な立場で倒幕運動をするよう命じたのです。

<黒幕は、忠光の叔父にあたる「中山忠伊(ただこれ)」>

中山家に入った長仁親王は、倒幕運動で殉じた「忠伊」にあやかって、自分も「中山忠伊(ただこれ)」と名乗り、各地の倒幕の謀をめぐらしている。
天保8年(1837年)の大阪での「大塩平八郎の乱」。天保5年の勤皇派の藩政奪取事件「仙石騒動」。文久2年(1862年)の寺田屋事件の首謀者の一人、田中河内之助(仙石騒動の首謀者・仙石左京の二男)は、忠伊の庇護のもと成人した・・・ということで、寺田屋事件の陰でも関係していたのです。
天誅組の挙兵においては、事が起こるとすぐに河内・金剛山に走り山内で陣を張り指揮に当たっていたのです。
たえず各地で何箇所か同時に騒動を起こすことを狙っていたものの、予想外の政変(8月18日の変)で天誅組があっけなく壊滅したため未遂となるのです。

忠伊公は、やむなく大阪・平野の満願寺に逃げ隠れていたものの、幕府の手が及ぶところとなり、同寺で自刃。

これほど忠伊公の企てがことごとく失敗したのは、下級武士や農民層など、個々の力に依存し大きな組織を持たなかったためとか。幕府を倒すには藩などの大きな勢力が必要で、5年後の薩長両藩の倒幕派が藩の権力を握ってからことを起こし、維新実現に成功したのです。
忠伊公の失敗も無駄ではなかったのかも・・・。



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1 コメント

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Unknown (なりちゃんじいじ)
2010-01-13 20:11:05
おばんです!
なかなか難しいですネ、奥が深い話ですね。初めて聞く話で興味深いです。軍令などは格調高い中身ですネ、意味も難しいです。
次を期待して待っております
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