<十津川郷士の徴兵・・・二人の死>
十津川郷といえば、かなり広い。山を越え谷川を渡って・・道とは言えないほどの山路。1日余りで1200人が集まった。
その連絡・移動手段は、どうだったのか・・・詳しく知りたいところです。
郷の人々は、イザという時、いつ何時でも出立出来る準備と心構えが備わっていたのだろうか。
十津川郷士は、菱形に十字の十津川郷の紋をつけた陣笠、陣羽織の装束、手には刀・鉄砲・槍あるいは何も持たず集まったのだ。
▲伴林光平が書いた大和義挙の檄文。十津川郷士を招集するための文書で、かなり強制的な内容なのだ。(十津川歴史民族資料館蔵)
▲梅田雲浜の書簡。深瀬繁理のことも書いてある。(十津川歴史民族資料館蔵)
▲菱に十字の十津川郷士が被っていた陣笠。そして幟旗。菊の御紋が光って見える。天誅組に加わっていた時もこのいでたちだったのだろうか。(十津川歴史民族資料館)
▲十津川郷士の鉄砲・刀・弓・槍・薙刀と通行手形。(十津川歴史民族資料館蔵)
▲風屋ダムのほとり、小学校跡地に建つ「野崎主計」の碑。
時世の句・・・『討つ人も討たるる人も心せよ 同じ御国の御民なりせば』
▲その隣には、十津川郷の梅田雲浜翁の碑があった。維新の志士たちにかなりの影響を及ぼしたのです。
梅田雲浜翁:アメリカのペリーが来航すると、条約反対と外国人排斥による攘夷運動を訴えて尊皇攘夷を求める志士たちの先鋒となり、幕府を激しく批判した。しかしそれが時の大老・井伊直弼による安政の獄で摘発され、二人目の逮捕者となってしまった。 『ウィキペディア(Wikipedia)より』<o:p> </o:p>
8月22日には、丹生川上神社の神官である橋本若狭と弟子が天誅組に加わるため天辻本陣に来ている。橋本は、神官であって武芸にたけ、この辺りでは隠然たる勢力をもっていたのです。
高取藩への交渉に出ていた那須信吾は、高取藩からある程度献上品を持ち帰っていたのだが、約束していた米百石が期限を過ぎても届かないため催促するものの・・・既に高取藩では京都守護職より達しがきており、天誅組に向けて戦闘準備に掛かっていたのである。
高野山にも協力を要請していたのだが、ここも紀州藩の手が回っており380名ほどの幕軍を迎え、幕軍を天辻への道案内役も務めるのである。
また、この本陣には五條などからも人足が集められ、弾薬、兵糧の調達が進められている。<o:p></o:p>
更に本陣とは別に、紀州方面の富貴辻と五條方面の鳩の首峠には、土塁や大砲を築き防御の砦固めもしている。
この本陣で作られたものの一つに、松の木をくり抜き、その周りを細く裂いた竹で締め付けた「大砲」がある。
後日、高取城攻めの時、使ったようだが・・・どうも筒の中に松ヤニがこびりついて発射すると筒が割れてダメだったようだが・・・。
集められた十津川郷士を前に、行動の趣旨が述べられたのだが、郷土の一人「玉堀為之進」と河内出身の浪士「上田主殿(とのも)」が、勅命の真偽を問いただした。
『一度、京に使者を出し、事実を確認してから郷土全体の行動をきめるべきだ』と主張したが、結束のため他への影響を恐れて二人は斬られてしまう。
これで、反逆するものはいなくなったのだ。
▲国王神社の境内建つ、郷土の一人「玉堀為之進」の歌碑。勅命の真偽を問いただしたため、「軍の統率を乱す!」といわれ上田主殿とともに打ち首になったのです。
▲玉堀為之進の碑。地元では庄屋であった。
▲国王神社。上野地から下流の杉林の崖の途中にある。この境内に玉堀為之進の碑が静かに建っている。
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天誅組も十津川郷士1200名を得て、天辻峠から出て、山城として難攻不落とされる「高取城」奪取に向かうのです。
忠光公は二十歳そこそこ、苦労知らずの公卿様ですから、だんだん独裁者になっていったようです。
それに従う浪士たちもタダのテロリスト、戦略というものが全然なかったのですね。
特に玉堀氏は十津川の庄屋級の人、思慮分別もあった人だったと思います。