いろはに踊る

 シルバー社交ダンス風景・娘のエッセイ・心に留めた言葉を中心にキーボード上で気の向くままに踊ってみたい。

占守島の戦い日本女性は

2006年08月17日 09時26分25秒 | 兎に角書きたいの!
 北方領土でロシア国境警備庁の警備艇から銃撃を受け、盛田光広さんが頭
部直撃で死亡されたとの報道があった。ご冥福をお祈りいたします。日本国
は、断固とした態度で日本国民の生命を守るため抗議と対策を講じて欲しい。
                               
 靖国神社参拝の折、遊就館にて1枚のパンフレットを手にした。

占守島の戦い
 日本が終戦を迎えた昭和20年8月15日から三日経った8月18日に、
天皇の詔勅に従い武装解除を進めていた、千島列島最北端(カムチャッカ半島
の突端)の島『占守島(シュムシュ)』の日本軍に対し、ソ連軍が突然上陸、
攻撃をかけて来た戦いのことを言う。このパンフレットは語る。
『終戦の時に、占守島には日魯漁業の従業員の方が2,500人ほどいました。こ
の人たちは国民の食糧確保の為に悪い戦局を承知で、缶詰工場で働いていま
したが、その中には約400人の若い女子工員も混じっていました。終戦を迎え、
内地からの迎えの船が来れば真っ先に彼女たちを送り返す手筈を整えていると
ころへのソ連軍の攻撃でした。
 参謀長と世話役の大尉は「このままでは必ずソ連軍に陵辱(りょうじょく)
される被害者がでる。なんとしてもあの娘たちを北海道へ送り返そう」と相談
し、当時島にあった独航船二十数隻に約400人を分乗させ、霧に覆われた港か
ら北海道に向けて出港させました。ソ連機の爆撃が続く中、日本軍も高射砲の
一斉射撃で必死の援護を行い無事に出港させることが出来たのです。
「全員、無事に北海道に着いた」との電報が島に届いたのは、それから5日後
でした。停戦後上陸してきたソ連軍は女性を捜し回ったそうですが……と続
く』同じく、電話交換女子が最後まで通信を続け殉職した北方領土での話しも
ある。

 今朝報道の、ロシヤ警備艇による銃殺には憤りを感じる。今もって不法占拠
を続けるロシア。日本政府には、断固たる姿勢でこの銃殺に抗議し謝罪を求め
てもらいたい。銃殺の報道を聞き直ぐにこの『占守島の戦い』のパンフレット
の記述内容が思い浮かんだ。
コメント
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