穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ドストエフスキーのアクメ(承前)

2012-05-09 08:38:49 | ドストエフスキー書評

メロドラマというと語弊があるが、とりあえずそれで流すとして、ドストエフスキーのメロドラマ作家としてもっとも腕の冴えをみせたのが「虐げられた人たち」である。ドストという名弦は最高に鳴り響いている。

これはロシア版「婦系図」だとむかし書いた。ロシアにもこんな小説があるんだ、と驚いた。江戸っ子のように意地っ張りで零落したお爺さんと、その娘で駆け落ちした娘と、孫娘がブラックホールに飲み込まれていく様に破滅に落ち込んでいくさまを詳細に描いた悲惨な貧窮物語である。

「地下室の手記」はドストエフスキーの運筆に重大な転機をもたらした中編である。運筆はスタイルとも言うが。

「罪と罰」がその後の長編と違うところは、密度の濃さである。壮年の充実した気力体力がそれを可能にしたのだろう。全体としての凝縮度、有機的一体感である。勿論長編であるから幾度かダレるところはあるが、場面場面の迫力は後期の作品にはるかにまさる。

登場人物のキャラクターの肉厚の感じも優れている。退職官吏マルメラードフに始まり、予審判事ポルフィリーや高等遊民スヴィドリガイロフなど、主役脇役という位置づけでは捉えられないほど描きこまれている。それでいて作品の一体感は損なわれていない。女性の描き方も後期作品のようにステレオタイプ化している印象がしない。

後期の作品の特色は思想性が優っているところだが、これは別の言い方をすれば抹香くさいということで、加齢現象の一つである。それと年齢とともに筆の潤い、艶が減少していく。ま、これがいいと言う人もいるわけである。