穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

アカデミズムという苦界に身を沈めなかった理由

2014-05-16 09:29:50 | 書評
最初の頃のアップで大学を卒業するとアキンドの丁稚になったという話をしました。どうして科学哲学という道を進まなかったということで、俗世間を捨てて終世清貧に甘んじて(表現も実態もout-modedだと思うが)研究というか勉強を続けなかったかということで、要はそれほど強烈な志向がなかったということに尽きるわけですが、、

たしかに、物珍しいというか、奇麗な表現をすれば最先端の分野と言う魅力はあった。なにしろ翻訳は全然ないし、原書は北沢にも丸善にも全然ない。注文して数週間待たなければならない。数ヶ月かかったかも知れない。もう記憶がうすれているが。船便しかなかったし、アマゾンもなかったからな。

科学の所詮ははしためではないかと漏らしましたが、今興行中の大相撲の世界にたとえてみました。

親方ではない。力士でもない。主役は科学者で彼らが主役の相撲取りです。行司か、ちょっと似ているかな、いやそうではない。科学者の評価というのは権威ある科学者がおこなう。ノーベル賞の推薦委員に科学哲学者はいないでしょう。

わたしは「呼び出し」だと思うんです。呼び出しはキをうったり、力士の名前を呼び出す他に、土俵整備の仕事がある。なんとなく、あれを連想します。とくに各取り組みのあとで(あるいは次の取り組みの前に)土俵の砂をほうきで丁寧に掃くでしょう。昔はアナウンサーが蛇の目に掃くなんて言ってた記憶があるが、違ったかな。「蛇の目を付ける」だったか。アップが終わったら早速インターネットで調べてみよう。メモメモ。

土俵の回りを掃くのは絶対必要です。力士の脚が土俵を割ったかどうかの決め手になります。ビデオ判定が無かった時には特に決定的に重要だった。

それに比べると、科学哲学による土俵の整備は、絶対的とはいえない。なんといっても後追いだし、どれだけ科学研究に貢献しているのか。科学研究の初心者の教養には役立つのかな。