穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

「私はユダヤ人だから」、ウィトゲンシュタインの火かき棒(七)

2018-09-27 07:39:03 | ウィットゲンシュタイン

 Wは「私がユダヤ人だから、こういう考え方しか出来ないのか」と周囲に漏らすことがあったという。もちろん公に著書とか講義でいうわけがないが、親しい知人に言うことがあった。いかにも底の底まで掘り下げて考える人らしい自省である。そこまで下りていかなければ本当の思索家とは言えないのだろう。

  常日頃私が考えていることだが、人間の意識をパソコンに例えて考える。その場合意識と言うのは一部の人間の言うように「無意識」とかフロイトの言うesを含んでいる。皆様すでにご案内のようにパソコンと言う箱は三層構造である。アーキテクチャー(基板)、OS、アプリケイションである。無意識と言うのはパソコン自作者のよく知っている基板にあたる。OSも無意識に含めていいかもしれない。パソコンの基板には多くのメーカーがある。しかし、大体同じ機能である。細部では働きに違いがあるが、たいていの場合どのメーカーの基板をつかっても大体機能は同じである。人類みな兄弟のパソコン版である。短距離に強い人種もいれば、マラソンに強い人種があっても「人類みなきょうだい」というわけである。

  OSはご案内のように一般消費者向けにはマイクロソフトとMacの寡占である。少数Linuxなんてのもある。またOSもマニアでは自作する人がある。アプリケイションは作成者がOSを選んで、そのアルゴリズムに従って作成するから、MSとMac両方で使えるようにプログラムを組んでいない限り、OSを選ぶ。

  人間の意識もこれに類する。Wが「ユダヤ人だから」と言ったのは基板レベルか、OSレベルか、あるいはアプリケイション・レベルか。なお人によっては基板レベルすなわち無意識とかesを「機械」と言う人もいる。

 

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