穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ポパーの空爆は成功したか、ウィトゲンシュタインの火かき棒(五)

2018-09-25 07:35:20 | ウィットゲンシュタイン

 ノンフィクションで「大激論」があったというのがテーマなら双方の主張を紹介して議論の帰趨がどうだったか、軍配はどちらにあげるのか(読者が)、水入り勝負預かりだったのかを読者が判断できるような詳細を述べるべきである。

  ところがくどくど、再三書いている割には議論の内容を読者に示していない。これには二つの理由が考えられる。一番目は著者が議論を理解できなかったということである。第二は縷々事実を述べるとどちらかの側からクレイムが出る。あるいは一方が不利になるように証拠を羅列するとまずい(著者の世俗的な利害関係からみて)と判断したかである。いくらなんでも、一番目の理屈は著者には失礼であろう。おそらく二番目の理由、配慮が働いている。

  当夜の出席者を色分けするとウィトゲンシュタインの親衛隊ともいうべき学生たち。ポパー。それ以外の哲学関係者の色分けはむずかしそうだが公然とウィトゲンシュタインに反対する教授たちは当夜の会合にはいなかったようだ。つまりどちらかと言うとウィトゲンシュタイン側。当夜はバートランド・ラッセルも出席していたが、どうも中立的でややポパーよりらしい。

  この中ではっきりと自分の当夜の主張を書きもので残しているのはポパーだけらしい。彼が事件後30年たって1976年に出版した自伝に当夜のいきさつを書いているそうだ。これを著者は紹介すればよさそうなものだがしていない。これは、かって日本語の翻訳が出たが今は絶版である(果てしなき探求)。小筆も読んでいない。

  ウィトゲンシュタインは事件5年後1951年に死亡しているが、なにも書き残していないようだ。事件後ラッセルとポパーで書簡を交換しているらしいが、ポパーはそのなかでラッセルの協力に感謝しているということだ。それ以外の出席者はなにも書き残していないようだ。

  ポパーは原子爆弾を二発投下したと自慢していたらしい。一つは1930年代に論理実証主義者の「検証」に対して「反証可能性」という爆弾を投下してウィーン学団を破壊した。もっとも、これはウィーン学団のリーダーだったシュリックがかっての自分の教え子に殺されたところも大きいようだ。

  もう一つの爆弾は1946年ウィトゲンシュタインと大喧嘩をした会合で投げつけた。ウィトゲンシュタインを完全にやっつけたと思ったらしい。今日の書店に多数並ぶウィトゲンシュタイン本を見るとそうとも言えないようであるが。

 

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