手打ち蕎麦をする私の徒然日記

2003年1月に手打ち蕎麦に初挑戦。手打ち蕎麦の事ばかりでなく、日常インパクトのあった事柄を思ったまま綴ったブログです。

私の英会話の勉強術

2008-10-09 18:16:16 | 教育
この度、アメリカに観光を兼ねて、行ってきたが、外国に行くたび、いつも苦労するのは、英会話だ。現代のグローバル化時代にあって、英会話が必要なことは分かっているつもりなので、私は、これまで、そして今でも、折に触れて、NHKテレビの英会話を視聴してきている。でも、日常生活では、英会話はまったく使わないので、絶対に英会話をマスターしてやるぞ、みたいな決意を持つ必要が無く、どうしてもいい加減な取り組みしかできない。
しかしながら、スケジュールが決まって、いざ外国に行ってくる、という段になると、気持ちの上で、どうしても英会話に本気で取り組まないと!、という気構えになる。-----こんな時、かつて私がサラリーマンをしていた時にやっていた取り組みは、会話で使う基本文章を丸暗記するものだった。基本文章はNHKの英会話番組や英会話の本などから、日常生活で重要なものとして、私が自己流で選んだ文章だ。挨拶文や依頼文など、日常会話で遭遇する、と思われる、いろんな場面を想定した文章である。
これらの文章は、ノートの左側と右側にそれぞれ、日本文と英文で書いておき、右側の英文欄を伏せたまま、左側の日本文を見て、すぐ英文が口をついて出るように何回も練習するのである。この練習を外国に出発するまでの間、毎日、ヒマがあるたびに、最初から最後まで、何回でも繰り返し繰り返し、反復練習するのだ。
これら丸暗記する基本文章は、その後も、折に触れて、便利そうな会話文に出会う度に、これを追加するので、雪ダルマ式に膨らんでいて、今では200をとっくに超えている。でも、反復練習のおかげで、最初から最後の文章まで、ひととおり実行するのに、それほど時間をかけずに済むようになってくるものだ。
今回、アメリカに行くのに際しても、私は、サラリーマン時代から、使ってきた愛用の基本文章集をひもといて英会話の反復練習に役立てたのはもちろんである。
会話では、相手のしゃべる英語を聞く脳力も大切なので、それには、日頃からヒヤリングをやっておく以外、うまい方法は無い。このヒヤリングの練習には、今、流行の携帯音楽プレイヤーi-Podなどを使うのが最適である。

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学習塾を考える(4) 塾で教えていないもの/教えてくれないもの

2008-09-16 16:45:38 | 教育
今の小中学校では、道徳に関する授業は、少し取り入れられているようだが、ほとんど重視されていないようだ。一方、学習塾では、道徳とか、人間いかにあるべきか、いかに生きるべきか、といったことを教えていない。これは、現在の学習塾の目的が、学校の試験でいい点数を取るため、とか、希望する学校に進学できるように入学試験でいい成績が取れるようするため、ということだからである。このことは、現在の進学試験や入学試験では、道徳性とか人間性そのものを考査していないから当然といえば当然だ。でも、実は、人間性やモラル面をテストしていない、という、これこそが最も重要な問題を内包しているものなのだ、と思う。
現在、多くの人々が、将来のエリート/豊かで安穏な生活をのみを夢見て、このような塾を、東大など一流の大学に入るためだけの道具として使っている。そして、やがて一流大学に入った彼らは、受験で培った巧みな勉強術を駆使して公務員試験にも合格して、日本の国家を取り仕切る官僚となっていくのだ。つまり、総務省とか法務省、防衛省、文部科学省、厚生労働省、農林水産省、などというような、お役所/公務員として職を得るのだ。
今や、これら官僚など公務員による不祥事がクローズアップされている。そして、業者との癒着、政治家をも影で操る官僚、公務員制度改革の骨抜き、などなど、目に余る。
お役人天国の日本で、官僚など公務員による不祥事は、今後とも次から次へと続いて発生していくであろうが、これは、基を辿れば、先に述べた、進学試験や入学試験などで、人間性やモラル面をテストしていない、という、ことに起因している、と思う。人間性やモラル面をテストすることで、不祥事を起こす人間を、排除できるようにしない限り、問題は永遠に解決できないだろう。そこで、この問題解決に向けては、また別の問題が出てきてしまう。それは、人間性やモラル面をテストする、として、これをどのように評価するか、という大きな課題が浮上する。今後は、この課題解決に向けて、知恵を出し合うべきであろう。
-----将来、果たして、人間性やモラル面を厳しくテストする、なんていう制度が実現するか、非常に難しいだろう、ことは想像される。もし、実現したら、学校や塾の場で、どんな人が人間性やモラルといった内面に立ち入った事柄を教えるのか、最適な人を探すのに苦労するだろう。その道の説法が得意なお寺の住職やお坊さんにも登場してもらう場面が出てくるかも知れない。

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学習塾を考える(3) 塾ほど利益率のいいビジネスは無い!

2008-09-09 00:46:47 | 教育
塾を開くには、例えば、製造業みたいに原料とか、製品を生み出す機械なども一切要らない。生徒たちに教えるための能力さえあればいいのだ。こんなに利益率のいい商売は、ほかに思いつかない。私の知り合いの方の弟さんは、フランチャイズチェーンの塾の塾経営を任されているそうだが、彼は最近、軽井沢に別荘を建てたそうだ。そういえば、彼は猪苗代湖のほとりにも別荘代わりにマンションの一室を所有していて、私は約10年前に知り合いの方とともにドライブ旅行を楽しんだとき、そこに泊めていただいたことがあった。
フリーターやニート、さらにはワーキング・プアと呼ばれる人たちが、大勢生まれてしまう、この厳しい世の中。親たちは、せめて我が子には、そのような人にならないように、と涙ぐましい苦労をして、高い月謝の塾に子供を入れており、今後も、ますます塾ビジネスは活況を呈しそうだ。
塾ほどおいしい商売はない!

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学習塾を考える(2) 塾は学校や文部科学省にとっては恩人!

2008-09-05 14:59:21 | 教育
小学生の場合、塾の存在は、落ちこぼれを生む、という一面を持っているが、その一方で、学校や文部科学省にとっては、恩人としての役割を持っている、と言えよう。
毎年のように、世界各国間での学生の学力レベル順位の比較が行われているが、その中で、我が日本が上位を確保できているのは、塾の存在が大きく寄与している、と考えられるからだ。今や日本国中、小さな町にも、塾が存在していて、ここで、学校での教育では不十分だったことの補習、というか穴埋め的な作業が、"私的"に行われているのだ。そこで、もしも、塾というものが全く無かったとした場合を想定してみると、生徒にとっては、穴埋めが行われない分、かなり学力が低下してしまう、ことは確実である。
学校の先生や文部科学省のお役人は、日本の生徒たちの学力が世界の中で上位を占めているから、といって、自分たちの現在の教育方針が正しい、と思ってしまうのは、早合点というものだ。実は、日本の生徒たちの学力を高めてくれているのは、街に氾濫している学習塾の恩恵があればこそだ、ということに気がつくべきであろう。


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学習塾を考える(1) 小学生向け塾が落ちこぼれを作る

2008-09-04 16:03:46 | 教育
最近の新聞で、小学生が学習塾に通っている割合が多くなっている、という記事を見た。年年歳歳、入塾率が高くなっている、という。
文部科学省が行った実態調査結果によれば、通塾率は小学生の場合26%、中学生が54%だった、とのこと。小学1年生では16%、同2年生では19%の児童が塾に通っている、という。塾にかかった小中学生1人当たりの平均月謝は2万1300円。塾に通わせない理由の中、「費用が家計を圧迫する」とした回答が小学生のいる保護者の26%、中学生の保護者で29%いた、という。
ここで大きな問題になるのは、塾に通っている子供と通っていない子供との間で、学力格差/能力格差が生まれてしまう、ということだ。塾に通わせたくても経済的に無理なため、通わせられない家庭もあるであろう。教育の機会均等といいながらも、現実には、家計の経済格差によって、塾に行かせてもらえない子が相当数いるものと想像される。
私は昨年、小学校で毎週土曜日に、生徒たちの勉強指導を行ったが、その経験から言えば、塾に通っている子と通っていない子とで、授業に対する態度には、総じて大きな差があることを目にした。塾に通っている子は、すでに塾で予習/復習をやっているせいか、断然、積極性があり、授業を引っ張っていく傾向が顕著であった。その結果、ともすれば、塾に通っていない子は消極的になり、授業に十分についていけず、落ちこぼれ予備軍に陥ってしまう、ということが十分あり得る、と常々憂慮している。塾に通っている子と通っていない子とが入り混じった中で、授業を進める教師にとっては、非常にやりずらい、と思えてならない。この問題点について、我が街の教育委員会に伺ったが、有効な解決策を打ち出せていない、のが現状だった。


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文部科学省による教員不正採用の調査は全くのナンセンス!

2008-09-02 18:30:42 | 教育
去る7月16日に、文部科学省は47の都道府県と17の政令指定都市の教育委員会に対して、教員の採用や昇任に絡んで、どのような不正防止策を講じているか緊急の実態調査を実施することを決めた、という。調査の主な目的は、教員採用試験を実施するにあたって、透明性や公正さが確保されているどうか、などを中心に調べ、議員ら有力者からの口利きなどの不正があったかどうかも確認するのだ、という。
私はこのニュースに接して、はたして、この調査で正しい調査が行われるのかどうか、大いに疑問を感じる。実態調査を教育委員会に委ねている、というのが、そもそも間違いであり、ナンセンスだ。このような調査では、例えて言えば、窃盗集団に対して、「お宅のところでは盗みをしていないですか?」と、質問しているようなものであり、決して真実の回答は得られないからだ。大分県の教育委員会みたいに、教育委員会が組織ぐるみで、採用汚職をやっている教育委員会は全国で他に無い、とは決して言い切れまい。従って、私は、調査を委託するのは教育委員会ではなく、第3者機関を作ってそこに調査を委託すべきだと思う。
大分県の事件が最初、報道された頃、テレビでのコメンテーター諸氏は、他県でも同様な不正が今後出てくるだろう、と述べていたが、実際はその後、他県でこの種の不正が全く摘発されていない。教員の不正採用などが全国アチコチで行われているらしいというのは、インターネット上の書き込み記事を見るまでもなく、数多く見聞するところであり、火の無いところに煙はたたないハズである。恐らくは、不正を行っている当事者たちは、当面はダンマリを貫き、嵐が過ぎるのを待っている心境なのだろう、と想像する。

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買い逃してしまった物理の本に関わる後日談

2008-08-29 16:01:03 | 教育
古本屋で買い逃した本を、インターネットで調べたら、「新・物理入門」山本 義隆 (著) であることがわかった。そして、市販されているらしいこともわかった。で、私は先日、新宿に出かけた折、「紀伊国屋書店」にて、その本を、1155円で買ってきた。
なお、インターネットで調べた時に、ついでに、著者である山本 義隆さんの人物像を知るため、フリー百科事典のWikipediaで検索してみた。そうして、わかったことは、次のような驚くべき事実であった。(以下、Wikipediaでの検索結果の内容から要約)
彼は、約40年前、1960年代に激しく捲き起こった学生運動の時代に、なんと、東大全共闘の代表者として議長を務めていた人だ、という。東大全共闘といえば、1969年1月の安田講堂攻防戦が想い出される。当時、大学側の要請によって8,000人を超える機動隊により安田講堂は陥落したのだった。彼は、この安田講堂事件の前に警察の指名手配を受けて地下に潜伏していたそうだが、同年9月の全国全共闘連合結成大会の場に登場して警察当局に逮捕された、とのことである。
彼は、学生時代より秀才でならし、在籍した東京大学では物理学科に進んで素粒子論を専攻、物理学者としての将来を嘱望されていたが、学生運動の後、大学を去った、という。 彼は、当時の国内留学先だった京都大学基礎物理学研究所での研究生活を放り出して全共闘運動のため東京に舞い戻ったそうだが、これに対し、その時の所長だった湯川秀樹博士は涙を流したというエピソードがある、という。
その後、彼は、大学での研究に戻ることはなく、また全共闘に関するマスコミ取材は一切受けず、予備校教師として、受験生に物理学の本質を教えようと努める傍ら、科学史の研究をおこなっている、という。

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古本屋で、間一髪で買い逃してしまった物理の本

2008-08-27 15:48:57 | 教育
街に出て、時間がある程度あったときなど、古書販売店の大手「BOOK-OFF」に行くことがある。非常に安い値段でお宝物の本を買うことができるので、ときどき利用している店だ。先日のこと、なにげなく、大学受験関係の本がぎっしり詰まった棚の中から手に取った「物理」関係の本は、積分記号などがアチコチ目に付き、説明文も厳密で事細かに書かれているようなので、購入することに決めた。定価が1100円(税抜き)と印刷されていた、この本には、450円の値札がついていた。本は、駿台受験シリーズとして出版されていて、著者は山本 義隆さんという人だったが、私には初めて聞く著者の方で、文章からして、なかなか骨のある、しっかりした考え方の持ち主のように感じた。"駿台"と言えば、大学受験の予備校として有名で、もしかすると、この本は予備校の教科書かな、と思った。
さて、購入を心に決めたものの、他にもお買い得の本もあるかも知れない、と思い、別の書棚をいくつか見てまわって掘り出し物を探した。--しかし、これといった本がなかったので、購入を決めた「物理」の本を買うため、先の大学受験関係の本の棚に戻った。ところが、買おうと思っていた本が見当たらない。なんと、近くにいた高校生と思われる若者が、私の狙った、その本を手にしていたのである。これにはビックリ。タッチの差で、私はその本を買い逃してしまったのだ。私は、若者の手にしている本を恨めしげに見ているほかなかった。
こうなると、私は、この「物理」の本を是が非でも欲しくなった。--でも、「物理」関係の本といいながら、具体的な本のタイトルを忘れてしまっており、その上、予備校の教科書だとすると、普通には手に入らないかな?と心配になった。
そこで、インターネットのGoogleでの検索機能を使って調べてみた。--これには後日談があって、驚くべきことがわかった。


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理科離れに思う--自然科学の面白さに興味を持たせることが大切だ

2008-07-26 11:51:44 | 教育
子供も大人も興味を持って面白く見入ってしまうものに手品がある。このように、老若男女、誰だって、不思議なものには興味がある。そして、その裏には何らかの仕掛けみたいなものがあるに違いない、と思う。これと全く同じことが、自然科学の面白さにもあてはまる、と思う。なぜなら、自然科学のいろんな法則も、視点を変えれば、これは、神様が、この世の中で演じている、一種の手品だ、と言えるからだ。
理科離れを防ぐには、高校になってから、というよりも、小学生とか中学生とか、の小さい頃から、科学に興味を持ってもらうようにすることが大切だ、と思う。小中学生時代に理科を面白く感じた生徒は、高校生になっても意欲を持って前向きに理科に取組むはづであろう。もし逆に、小学生時代に理科に苦手意識を感じた生徒は、中・高校生になって理科に取組むときは、苦手意識を感じて、初めから理科に取組む姿勢を後退させることにもなりかねない、と思うのだ。
理科を教えるときには、興味を持たせるような教え方も大切だ、と思う。博士号を取得した人が、単に理科の教員になれば問題が解決する、という問題でもない。出来るだけ易しく教える技術、工夫が必要だ、と思う。私の住む街では、今年から小学校・中学校での土曜教室は中止になったが、昨年まで土曜教室の講師をやっていた私は、どんな教え方、説明の仕方をすれば子供たちがより興味を持ってくれるか、ということを常日頃から考えていた。そこでは、言葉での説明ばかりでなく、目で見て手で触って体感できるよう、"モノ"を持参して手品みたいにして見せたりした。また、人工衛星が打ち上げられて話題になったときには、そのロケットの写真や衛星本体の写真をカラー印刷して持参して見せたこともあった。重さとか長さはどのくらいのものか?、車や電車と比べてどうか?などクイズみたいに生徒たちに問いかけたこともあった。そして、多くの生徒からは、これらの写真を欲しい、とせがまれ、増刷して翌週に配ったこともあった。
ところで、ほとんどの人が万有引力の法則を打ち立てたのは、イギリス人のアイザック・ニュートンだってことは、知っているだろうが、数学の分野に出てくる微分・積分の原理を打ち立てた人も同じく、アイザック・ニュートンだってことは、知らないのではないか、と思う。微分・積分に出てくわして、数学を苦手になる人は多いと思うが、その原理を教わる時、いかに平易に説明されたかによって、好き嫌いが分かれる。これも、教える側の責任だ、と思う。
要は、理科離れ救済のポイントは次の3点に集約されると思う。
◎子供の頃から、自然の不思議さ・面白さに気づかせ、興味を持たせること。見て、触れて体感できるような工夫した教育が必要。
◎理科の不可思議さを分かり易く教えること。数学や理科に苦手意識を感じさせないよう十分にわかり易く教えること。
◎ニュートンなど科学を極めた人たちの苦労話などの伝記を読ませること。

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自然はウソをつかない!--私が自然科学系に魅せられた理由

2008-07-12 10:26:09 | 教育
私が高校を卒業して、大学でどんな学科を専攻するかを決める時、自然科学系を専攻したのは、"「自然の法則」って、この世の中で人間が勝手に決める「法律」や「規則」などとは違って、実にスッキリしていて統一がとれている"、という点である。この自然というものの統一感みたいなものに気が付いたのは、中学生時代の恩師である和田先生のおかげである。先生は化学を主として教えてくれた理科の熱血先生で、私はこのとき初めて、理科が面白くて好きになった。
実は高校から大学に進学する際、当時、父は会計事務所での仕事をしていたので、長男である私は、両親から、理工系ではなく経済とか商学系を専攻するよう薦められたのだが、最終的には私の我がままを通してくれた、という経緯がある。
さて、自然科学を学問していくと、自然界には、いろんな不思議なことが無数にあって、それを知りたい、という欲求、というか面白さに引き込まれていく。その面白さには汲んでも尽きることの無い味わいがある。そして、科学する人たちは、不思議なことの中にも、スッキリとした統一感が宿されていることに気づいて、それを数式という便利な道具を使って、表現している、ことは周知のとおりである。例えば、リンゴが木から落ちるのを数式で表現したのが万有引力の方程式であり、電波が伝わるのを数式で表現したのがマクスウェルの方程式である、というように。こうして、自然科学を探求して、自然に宿っている統一した法則のようなものを導く場合には、どうしても数学の助けが必要になるので、科学者には道具としての、「数学」の知識・勉強が不可欠になるのだ。
この世には、科学の法則のような永遠に亘って不変なこと、つまり時代の変遷によってかわらないものが存在することは事実であって、煎じ詰めると、そこには、この世で私たちが称している、いわゆる「神」という存在に行き着くように思う。従って、真理いわゆる自然の摂理を代弁した自然の法則っていうのは、万物を律している"神"の法則に他ならないように思える。諸行無常という自然の法則は、時代を越え、いつの時代にもあてはまる厳然たる事実である。こういった真理は時空を越えて、不変の存在であり、実にスッキリしている。
一方で、この世の中には"法"とか"規則"みたいな名前のつく、人間がその時代・時代に合わせて創った法制度みたいなものが無数にある。また同種類の法制度でも国によって中身が違っていることはザラだ。規制をする法律、規制を解除する法律、どれもこれもあくまでも一時しのぎの法律に過ぎず、時代が変わり、環境が変わってくると、いとも簡単に変えざるを得なくなる。ややこしい!
こういった人間の創った法制度・法律に比べると、真理はいつの時代でも不変であり、ウソ、偽り、ゴマカシが絶対に無い!
"本来なら絶対に学校の先生になれなかったであろう人物が先生になっている"・・など、神の意思に反したことが堂々とまかり通っている、という事実は、現実の世の中ならではの話なのである。


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