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手打ち蕎麦をする私の徒然日記

2003年1月に手打ち蕎麦に初挑戦。手打ち蕎麦の事ばかりでなく、日常インパクトのあった事柄を思ったまま綴ったブログです。

これぞ、演歌の真骨頂!香西かおりさんが熱唱する「岬宿」

2022-03-06 12:04:05 | 想い出
約一か月前にYouTubeの画面で、香西かおりさんが唄う「岬宿」という曲に出会った。そのとき、初めて聞いて衝撃を受けたが、あまりにも演歌の神髄をついた作品だと思わざるを得ない!その日以来、毎日のように何十回も聞いている。
香西かおりさんの透き通った歌声と丁寧な唄いっぷりは、実に見事だが、歌詞を作った星野哲郎さんの才能の素晴らしさには脱帽ものだ。更には、その歌詞を、より迫力に満ちた曲へと仕上げた作曲家の叶弦大さんにも心から感銘を受けている。

1番から3番までの歌詞は、後述するが、歌全体の要旨は、
雨が降る晩、かつて相思相愛だった男女が岬のある宿で、久しぶりに再会し、お酒を酌み交わす、というシーンが女性の視点から描かれている。

1番の歌詞では、男性からお酌をされた女性は、夢心地で、酔いたい・泣きたい気持ちになり、その心境が、「小さな胸が波を打つ」という絶妙の表現で描かれている。

2番の歌詞では、その晩、街を離れることになっている男性の乗る船の出船が、雨のために延期になるよう、翌朝まで雨が降り続いてほしい、と願う女心が描かれている。その一方で、二人して炬燵の中で手を握り合い、熱く心が燃える中、汽笛が遠くから聞こえてくるのだが、この表現も実に絶妙だ!。

3番の歌詞では、膝を寄せ合って、男性からお酌された女性が、うれしいわ! 甘えてもいいかしら? と語った後て、髪を乱れたままにして、「惚れているんだもん」と口走り、まさに、女性の可愛らしくもすさまじい愛の感情が一気に表現されている。すごく、女性のいじらしさがにじみ出ていて、胸にジーンと迫ってくる。実に、その場に居合わせていることを実感させてくれる。!


私は、この曲を聴いていると、昔、別れた女性のことが思い出されてきて、涙が出そうになり、胸が熱くなります。渋谷の井の頭線の改札口で、手を振って彼女と別れたのが最後です。今から50年ぐらい前の午後のことでした。当時、独身だった私は、毎晩のように鹿児島出身の彼女のアパートに泊まって、翌朝、そこから会社に出勤していました。
私が、この歌を好きな理由は、きっと、この歌に出てくる女性が、昔の女性に重なって見えているからかも知れません。あれ以来、あの女性はどう過されているか、知るよしもありませんが、いつも思うことは、幸せで過されていてほしい、ということです。

<1番の歌詞>
いつのまにやらチラチラと
ともる灯りがつつんでくれる旅の町
徳利片手に貴男のお酌
夢かしら
酔いたいな泣きたいな
久しぶりだもの
小さな胸が波を打つ
岬宿

<2番の歌詞>
いっそ朝までシラジラと
降って出船を伸ばしてほしい結び雨
やぐら炬燵のフトンの下で
手を握り
燃えたいな焦げたいな
二人だけだもの
汽笛が遠く呼んでいる
岬宿

<3番の歌詞>
膝を寄せ合いあなたのお酌
うれしいわ
甘えてもいいかしら
惚れているんだもん
乱れた髪でそのままに
岬宿

今日の徹子の部屋は、昔大好きだった園まりがゲストだった

2021-05-31 18:44:36 | 想い出
コロナ禍で家に閉じこもることが普通にならざるを得ない現状において、定年をとっくに迎えている私と同世代の人たちは、それぞれの家庭でどのように過しているのだろうか、と、しょっちゅう疑問に思っている。無職の私の場合、昼間、食事の時間を除いたすべての時間がひまなのだから、これ以上贅沢な生活というものは無い。時間がもったいない、と言われればまさにその通りだ。
私の場合、どんなことして、暇を過しているかと言えば、新聞の興味ある記事を切り取って、スクラップブックにしたり、サラリーマン時代に書きためた、技術資料を整理したり、歌謡曲など好きな曲のCDを聴いたりしている。それと、週に2回ほどは、10年以上前から取り組んでいる社交ダンスを気の合った仲間と一緒になって楽しんでいる。また、家内のお手伝いと運動不足解消を兼ねて、自転車で近所のスーパーまで買い物に出かけている。娯楽番組としてのテレビを見るのは、興味ないのだが、それは、ほとんどの民放テレビが流す番組では、お笑い芸人がただ単にお笑いを取るためのおしゃべりとか、バカふざけをしているばかりなので、見るに堪えないからだ。
さて、今日、昼過ぎのこと、CDで歌謡曲に聴き入っているとき、なにげなくテレビをつけたら、「徹子の部屋」の番組をやっていて、園まりがゲストとして出演していた。私が結婚する前から、大好きだった彼女だったので、当然、テレビに釘付けになって、見入ってしまった。聴けば、現在77歳だという彼女にしては、昔とあまり変わらない、可愛い顔立ちには魅了させられたし、すぐに、後で再度テレビ画面で見られるように、すぐに録画の設定をした。
思えば、私がまだ、結婚前で、公務員として、六本木にあった研究所に勤務していた当時、私の園まりに対する熱烈ファンぶりは、先輩にも知れ渡っていたし、そんな先輩を誘って、あの当時、地下鉄・赤坂見附の駅からほど近くにあった園まりのお花屋さんに出向いたこともあった。
また、当時、自宅2階の部屋で過していた私に、「むーちゃん、今、テレビに園まりが出てるよ!」って、20歳年下の弟が、階下から、大声で私に知らせてくれたことが度々あったことも、今思い出されて懐かしい。

50年ほど前のことー鹿児島内之浦での夏の日の想い出

2020-08-17 16:37:32 | 想い出
あの当時、内之浦町の中俣旅館には、電気通信関係だけの職員10人~20人くらいの男性ばかりのメンバーが、東京から出張して宿泊するのが通例になっていた。年齢はみな20歳代から30歳代で、私を含めて、大部分が独身だ。メンバーのうち、大体半数づつが、東京大学の付属研究所である、生産技術研究所(生研)と宇宙航空研究所(宇宙研)にそれぞれ所属している職員である。
中俣旅館には、中俣クニさんという女主人のおばあちゃんが居て、彼女は、サザエさんの漫画に出てくるおばあちゃんそっくりさんだ。私より一歳年下の鈴木君は旅館では、よくふざけて、おばあちゃんが嫌がるのを承知で、人の優しいクニおばあちゃんを背中に背負って、部屋中を駆けずり回って面白がっていたものだった。
旅館には、五右衛門風呂というお風呂があって、これで入浴するのは私にとっては初体験だった。直径が1メートルくらいの鉄製のお椀の形をした風呂で、お湯を張った表面には、お椀の底と同じくらいの直径の木の丸い蓋が浮かんでいて、風呂に入るときは、その木の蓋に片足を載せて、その後、蓋が風呂の底に届くまで、自分の身体を鉄製の風呂に触れないよう、バランスを取りながら、身体を沈めて入浴するのだ。
時期が夏ともなると、夜、寝るときは、各自フトンを敷いて、蚊帳を吊り、当時はエアコンなど無かったので、雨戸は開けっ放しにして寝たものだった。
ところで、中俣旅館では、内之浦の他の旅館と同じように、私たち宿泊者がある度に、近くに住む奥さんがパートのおばさんとして旅館に雇われて、食事作りや配膳、などをしてくれた。
出張時期が8月で、子供たちの夏休みの時期とも重なったこともあった。そんなときは、パートのおばさんの子供たち、二人の女の子が、母を頼って中俣旅館に時々遊びにやって来た。すると、子供好きな私は、すぐに女の子たちと友達になった。一人は小学3年生ぐらい、もう一人は中学生のお姉ちゃんだ。私は、旅館でヒマにしている時は、彼女たちの夏休みの宿題の手伝いをしたり、また、昼間にロケットの打ち上げ作業が休みになったときには、彼女たちと一緒に、バケツと釣竿をもって、川に魚釣りに出かけたものだった。こんなこともあって、お正月には、小学生の女の子から、東京の池尻にあった私の下宿先に、可愛らしい文字の年賀状が届いたものである。たしか吉留洋子ちゃんという名前だった。

50年ほどの前の想い出、ーー出張先の内之浦で、船上で酒盛り!

2020-05-24 15:55:15 | 想い出
ロケット打ち上げの作業が休日になった、ある日のこと。内之浦の街をぶらついていた私は、孫志おじさんと出会ったことがあった。おじさんが言うには、内之浦湾に船を出してもらって、一杯やろう、という。近くには、たまたま井上さんという、私と同じロケット打ち上げ関係者もいたので、彼も参加することになった。その井上さんは、丸顔で目が真ん丸なので、仲間からはキューピーさんと呼ばれていた。
さて、私と井上さんは、孫志おじさんの先導で、3人で内之浦の漁業協同組合のところに足を運んだ。孫志おじさんは、その漁協の人たちとも顔が効くようで、すぐに私たち3人は漁船に乗せてもらえることになった。漁船には、焼酎や醤油などのほか小皿や料理道具なども持ち込んだことはいうまでもない。それで、3~4人の漁協の人も乗り込んで出発!。
晴天だったその日の昼頃、波静かな内之浦湾の中ほどに船を停めて、早速、船上で、獲れたての魚やイカをの調理して、みんなで酒盛り!。獲れたばかりの新鮮な魚やイカなど、その味は、まさに格別、天下一品とはこんなことを言うのだ、と思う。私にとっては、透明に近いくらいに透き通ったイカの刺身は、今でも目の奥に焼き付いている。そしてまた、その食感は、生涯忘れられない味覚だ。
出張先で、こんな贅沢な機会に恵まれた私って、ほんとについてるなぁ、運がいいなぁ、と思う。


午後の昼下がり、ベッドに寝転んで聴いたナツメロに青春時代の淡い恋が蘇って胸キュン!

2020-05-08 19:43:18 | 想い出
今日は、風もなく、穏やかな午後のひととき。家内はJR電車で片道30分かけて、孫娘たちの住むマンションに出かけています。
私は、ベッドに寝転んで、実に久しぶりに、CDプレーヤーで、昔の懐かしい歌謡曲、いわゆるナツメロを聴いていました。
聴いているうちに、昔、50年ほど前に、まだ私が東大の付属研究所に勤務していたころ、新宿コマ劇場地下のダンスホールで出会った女性のことが想い起されて、胸が熱くなりました。
秋田県出身の彼女は、見るからに古風な感じのする、色白で、物静かな女性でした。晴れの日の午後、日比谷公園で、デート・散歩をしたり、JR渋谷のハチ公側出口の前の地下街階段の降り口付近で待ち合わせしたりなど、いろんな思い出があります。それと、JR有楽町駅の日比谷公園側出口から少し歩いたところの大通りにあった「タクト」という純喫茶店で待ち合わせたこともありました。
その間、彼女からは手編みのクッションをプレゼントされたこともありました。
今にして思えば、どうして、あの当時、「好きだよ!」って、言わなかったのか、実に残念です。彼女とは1年以上も、付き合いが続いてたのに、キッスすらできなかったんです。
当時、私は彼女を心底好きだったはずなのに、何故、あの一言を言わなかったんだろう、言えなかったんだろうか?
これって、私の青春時代の忘れられない、苦い、くやしい、情けない、悲しい、想い出になっています。


50年近い遠い日の想い出-出張途中に鹿屋に寄り道しキャバレーに入る

2020-04-12 17:39:46 | 想い出
50年ぐらいも前のこと。ロケット打ち上げにともなう出張で、鹿児島に出張する機会が何度もあった。まだ独身だった頃のこと。あるとき、私はひとり、出張現場までの道中の途中で寄り道して知らない街などを見物するため、出張する日を予定より1日だけ早目にして東京を寝台車で出発して、いくことがあった。ここで、そんな日の出来事を書いておく。
その日は、鹿児島県の鹿屋というところで寄り道をした。この「鹿屋」と言えば、日本が負け戦となった第二次世界大戦で、帰路の燃料も持たずに米軍に向けて出撃していった神風特攻隊の出撃機数がわが国で最も多いのが、この鹿屋の飛行場からだった、ということで知られている場所だ。
さて、私は、昼間は鹿屋の街を散策した後、夜も遅くなってきて、泊まる旅館も決めていない状態で、敢えて、若い女性が男性を接客する、いわゆるキャバレーに一人で入ったのだった。その当時、私は、東京では、たまに友人とキャバレーに入っていたことがあるので、鹿児島という地方のキャバレーが大都会の東京と違って、どんなものか知りたい、という好奇心があったからだ。お客に女性が接待して、いろんなよもやま話をするのは、東京の場合と同じで変わらない。ただ、この当時の鹿屋では、この日の私のように、東京からのお客が来る、というのは、滅多にないようで、私の隣に座ったホステスの女の子とは、大都会・東京の話題などで盛り上がった。その女の子は若くて小柄で、いかにも田舎娘といった女性で、私お気に入りの女の子だった。私は遊び心も手伝って、お店の閉店までねばって、その女の子に、私は、その夜の泊まり場所は決めてないことを話したら、その田舎娘の女性が、「ウチに泊まってもいいわよ」と、私の期待していたとおりのことを言ってくれた。
閉店後、田舎娘のお嬢さんの彼女が下宿している民家の2階に案内され、私は彼女と同じ布団の中で一夜を共にしたのだった。その晩は、言うまでもなく、彼女は当然のように、積極的に私とのセックスを待ち望んでいた。私たち二人は、貪欲に互いの快楽を求めあった。私は、彼女の秘肉の奥深くに挿入・結合して、お互いに最高の頂点を求めあった。より深い結合のために、私がピストン運動を加えるたびに、彼女は、「サトシ!」、「サトシ!」と私の名前を何度も大声で叫んで絶頂を楽しんでいた。と、云うのも、実は、私は、彼女には、お店に入ったときに、自分の名前を「敏(サトシ)」という偽名で伝えていたからである。!
こうして、互いに絶頂を味わった結果、私たちは深い眠りに落ちて行ったのだった。
しかし、約2時間ほど眠った後で、二人はまたもセックスの虜に襲われた。それで、この晩は再度のセックスをして、またも、お互いに最大限の喜びを味わったのだった。
この光景はいまだに忘れることのできない、大興奮の想い出だ。
一夜が明けた、その早朝でのこと。私は出張現場のある内之浦まで、定刻に到着しなければならないため、当日朝は早めに起床、午前7時頃に鹿屋のバス停から始発のバスに乗り込んだのだった。その後まもなく気付いたことだが、驚いたことに、昨夜を共に過した娘さんがバス停まで見送りに来てくれていたのだ。そして、バスの窓越しに朝食のための食物を手渡してくれたのである。
そして、バスが出発したとき、彼女は、見えなくなるまで手を振ってくれていた。あの日の光景は今でも忘れられない。娘さんのことを今でも思い出すたび胸が熱くなると同時にこみあげてくるものを感じる。この想い出もまた、生涯忘れられない、大切な想い出だ!!
世間では、鹿児島の女性(薩摩おごじょ)は情けに非常に篤い!という評判を耳にすることがあるが、確かにそうだと思う。結婚するなら、鹿児島の女性がいい、という噂は本当だと思う。
あの鹿屋のカワイ子ちゃんのお嬢さん、今頃どのような人生を送っているのだろうか?幸せな毎日を過ごしていてほしいと切に願うばかりである。
今、振り返るとき、熱き血がほとばしった南国での一夜であった。

今年は日本初の人工衛星誕生から50年!

2020-03-12 17:13:01 | 想い出
毎年迎える2月11日。この建国記念日という日は、日本で初めて人工衛星が打ち上げられた記念日と重なる日でもある。このブログでも、10年前の2010年の2月に、衛星誕生から40年として言及した。
50年前のあの日 1970年(昭和45年)2月11日、鹿児島県の大隅半島に位置する内之浦のロケット発射場は快晴だった。そこから発射された「L-4S-5(ラムダ4S5号機)」と名づけられたロケットが自身の頭部に抱いた衛星を、日本初の人工衛星として地球を周回する軌道上に載せたのである。当時は、我が国には、今のようなJAXA(宇宙航空研究開発機構)といった、打ち上げとか研究開発に関わる組織は無く、それに代わって、東京大学の付属研究所によって、研究・開発が進められていた。その当時、付属研究所に勤務していた私は、ロケット打ち上げのたびに、研究所の教授や仲間の研究所職員と共に内之浦に出張して、みんなして打ち上げに参加・協力してきた。そんなわけで、私が偶然にも我が国で初めて成功した衛星打ち上げの際に居合わせ、ほんのちょっぴりながら成功に協力できたことは、私の人生にとって大きな記念となっている。
なお、このロケット打ち上げに伴なった出張などでは、いろいろな想い出が沢山あるので、折を見て、このブログに書いてみようと思う。
あれから、早くも、ちょうど10年が経過したが、あの人工衛星を打ち上げるときに、実際に使われたロケットのランチャー(発射台)は、相変わらず現在も、国立科学博物館裏手の所の屋外に設置されていて、その雄姿をさらし続けている。私は、JRの宇都宮線とか山手線や京浜東北線に乗車中に、電車がJR上野駅近くにさしかかったところで、いつものクセで、国立科学博物館の方角に目を向けて車窓から、その雄姿を眺めている。胴体に L-4S-5  と書かれたロケットは、人工衛星を打ち上げるのに使ったロケットの模造品だが、これを載せているオレンジ色をした発射台は、50年前に使ったもの、そのものである。

9年前の東日本大震災の当時、私はダンスを習っていた

2020-03-11 16:02:31 | 想い出
地震が起きた当時、渡良瀬川近くの「リバーサイド」体育館で行われていた社交ダンスの講習会に出席していた。八木下先生のクラスで、たしか、サンバの講習中だった、と記憶している。
地震が発生したとき、体育館が大きく揺れたので、私たちは、非常口の扉を開けて、外に出た。そして、渡良瀬川の土手の草むらに腰をおろして、体育館がユッサ・ユッサと左右に大きく揺さぶられているのを眺めていた。
地震がおさまって、しばらくしてから、車で我が家に戻った。
自宅2階の10畳の洋間では、壁際に設置された食器棚は倒れてはいなかったものの、その観音開きの扉は、開いていて、中に収納されていたワイン・グラスやコップや、数万円したコーヒーカップなどが棚からこぼれ落ち、コナゴナに割れていた!、
今日は、例年なら、政府主催でその大震災の追悼式典が行われるところだが、最近、世界を揺るがしている新型コロナ・ウイルスによる病気拡大を防ぐため、中止された。ただ、それに代わって、大震災発生時刻の午後2時46分に、政府による簡単な黙祷の式典が行われた。この時の1分間にわたる黙祷の模様は、NHKのテレビチャンネルで放映された。私もこのときばかりは、炬燵から抜け出て、座敷に正座し、東北方面に向かって、合掌して黙祷した。
なお、この式典と同時刻に大震災に関わる報道を行っていたのは、民放TV局では、6チャンネル(TBSテレビ)と8チャンネル(フジ・テレビ)の2局だけだった。今後、時の流れとともに大震災のことが忘れ去られ、風化しつつあるのかなぁ、と思うと、寂しいと同時に残念なことである。



58年前の今日は、現在の天皇陛下夫妻の結婚式が行われた!

2017-04-10 21:55:18 | 想い出
58年前の今日、つまり、1959年の今日、皇太子殿下(現天皇)と正田英三郎・日清製粉社長の長女美智子さんとの結婚の儀が皇居で行われ、皇居から新居、東宮仮御所までの馬車列によるご結婚パレードでは50万人以上が沿道を埋めつくして祝福したのだった。
私は、今日も、いつものように、テレビを見ているが、テレビでは今日が天皇陛下夫妻の結婚記念日だということは全く、報道されていなかった。しかし、私には、毎年、なぜか、4月10日という日が、かつての皇太子殿下(現天皇)の結婚式だということが、自然と脳裡に浮かんで思い出されてきてしまう。
その日、大学生だった私は、東京神田の鍛冶町にある丸石自転車という会社に行っていて、そこでアルバイトの仕事をしていた。会社の一室で会社の人たち4~5人と一緒に、全国のお客さんたちに届けるダイレクトメールの郵便物のあて名書きをやっていたのだが、それが、つい昨日のことのように思い出される。当時は、今みたいにパソコンがなかった時代だから、封書に書くあて先は、もちろん手書きだ。部屋には、年配の女性社員一人のほか、彼女よりももうちょっと若い男性社員さんたちとがいて、当日は、みんなで陛下の結婚式に関する話題に花を咲かせながら、あて名書きの作業をしていた。今、想い出しても実に懐かしい。-----あの当時の社員さんたち、今はどうしているだろう。実に懐かしい思い出だ。
ところで、あの頃の時代の皇太子殿下、といえば、私には、もう一つの思い出がある。私が大学を卒業して、公務員として六本木にあった東京大学の付属の研究所に勤務していた当時のことである。当時、皇太子殿下が、この研究所を見学されたことがあった。その見学に際しては、陛下がお見えになる一週間以上も前から、いくつもある研究室をどのように見学していただくか、とか、各研究室の説明員が研究内容を何分を要して行うのか、など、研究所をあげて、事細かにスケジュールを作って、入念にスケジュールを作り、何度もリハーサルを行った、ということがあった。当時、その総指揮官を務めた教授がストップウォッチを持って、陛下のスケジュールに則った通りに見学が進行するよう、細心の気配りを行っていた、ことが、今から思えば懐かしく思い出される。
なお、この研究所は、今は一部の建物を残して、ほとんどが取り壊されて、「国立新美術館」として生まれ変わっている。


心が痛む想い出ーー捨て猫の話

2016-05-29 11:34:30 | 想い出
今日、5月29日、今朝の朝日新聞に「くらしの扉」という欄があって、そこでは「子猫 救うには」という記事が特集されていた。捨て猫などを見かけたら、その命を救うために一歩、踏み出してみませんか? っていう内容の記事だった。この記事を見た瞬間、私には心に引っ掛かる事が脳裡に浮かんだ。と、いうのは、・・・・・
実は、もう何年も前のことになるが、夕方、私は一人で渡良瀬川方面にサイクリングに出かけていたとき、途中、猫の鳴き声を聞いて、道路わきの草むらに捨て猫がいるのを発見した。見るからに、生まれてまもない子猫で、傍にはカラスが居て、子猫に襲いかかりそうな有様だった。そんな光景を見て、今は子猫がありったけの力を振り絞って、カラスを追い払っているものの、夕方、日が暮れて、子猫が力尽きたら、カラスに襲われてしまうのは明らかだろう、って思いながらも、その場を去った。こうして、猫や犬を飼うのを好きではない私は、「可哀想」と思いながらも、その場を去り、サイクリングを続けたのだった。
で、その後も、たまに、サイクリングで同じコースを辿ることがあるのだが、そこを通り過ぎる時は、いつも決まって、あの捨て猫のことを思い出す。実は、昨日、たまたま、買い物の途中で、サイクリングをする気分になって、例のサイクリングコースに足を伸ばしてみた。もちろん、あの草むらのそばを通り過ぎた時も、アノ時の捨て猫はこの辺にいたんだなぁ、って思い出していた。おそらく、私にとっては、この場所を通るたび、生涯、捨て猫のことは、忘れないだろう、と思う。
捨て猫などの事例をなくすには、飼い主の責任意識や、動物を気軽に保護してくれる機関などの整備も必要なのでは、と思う。