「ふつう『自己実現』っていうと、自分のやりたいことをやって、社会的に認められる、できたらお金ももうかる、そういう意味で成功するってことだと思ってるよね?」ときくと、答えは「そうです」ということでした。
その「自分のやりたいこと」という場合の「自分」が問題なんだよね。
きみたち――僕も戦後生まれなので「ぼくたち」と言ったほうがいいかもしれないけど、みんな学校で戦後のアメリカ的な個人主義・民主主義がまるでぜんぶ正しいかのように教わってきたよね。
「自分は自分、何よりもまず自分が大事、自分に権利がある。自分の人生は自分のもの、自分のためにある」と。
それは、国や家という共同体にあまりにも一人一人の人生が犠牲にされるということがあったのに対する批判、改善という意味では、確かに一定の正しさがあると思うよ。
しかし、それは話の半分、あるいは半分以下だったんじゃないかな、ぼくもだんだんに気づいてきたことなんだけど。
これまで伝えて学んでくれたように、個人だけで存在している個人というのは実は幻想なんだったよね。
つまり、自分というのは自分だけで生きてはいけない、つまり自分であることはできない。
自分は自分でないものとのつながりで自分であることができる。
つながってこそいのち、他のもの(者と物)とつながってこそ自分なんだよね。
もちろん、自分と自分でないものはつながっているといっても、ちゃんと区分・区別はある。
くっきりと区分はあるけれども、分離はしていなくて、切っても切れないつながりがある。
自分・自己というのは、ほんとうはそういうものだったよね。
だから、「自己実現」といっても、個人としての自己を実現しようとするのと、他とつながった、他のおかげで存在している自己を実現しようとするのでは、似て非なることになるんだよ。
それは、他のために犠牲になること・自己犠牲とも違ってる。
もちろん、自分のため(だけ)に自分の好きなことをするとか、自分が他者に勝って押しのけて成功するというのとは根本的に違っている。
「自己実現」というと聞こえはいいけど、結局自分のためしか考えていないとすると、それは実は自分勝手、見せかけのいいエゴイズムにすぎないんじゃないかな。
ところで、結局は自分のことしか考えていないエゴイストが好きな人いる? いないよね。
つまり、カモフラージュされたエゴイズムにすぎない自己実現・自分勝手を追求していると、結局他人から嫌われる。つまり認められないわけだ。
他人から・社会で認められたいと思って始めた自己実現が、いつの間にか認められないという結果になるんだね。
なぜそんなことになるかというと、最初の時点で「自分・自己」というものについて思い違いをしているからなんじゃないか、とぼくは思うんだけど、きみはどう思いますか?
時々、光る海や明るい砂浜やそこで楽しそうに走りまわっている子どもたちに目をやりながら、話を続けていきました。
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