食事の支度をするということは、いのちを育むということだと思います。
妻が作ってくれた心のこもったおいしい食事を食べると、生きていること、生かされていることは有難いことだなと実感します。
それは体の糧であるだけでなく、心の糧でもあります。
母や妻、女の人たちがやってきたことは、単なる飯炊きなどではなく、そういう体と心の糧を調えいのちを育むという仕事だったのだと思います。
それは別に男がやってはいけないということではありませんが、しかし太古からの役割分担として主として女性がやってきてくれた有難い、素晴らしい仕事だったのだと思います。
石垣りんさんの詩の後で、また大木実さんの詩を3編紹介したくなりました。
米をとぐ音
大木 実
あすの朝餉(あさげ)の
妻は米をといでいる
聴きなれた
米をとぐ その音
――サクサク サクサクサク
妻は米をといできた
ここの家で
疎開の間借りの田舎家で
東京のアパートの小さな部屋で
米をとぎながら若かった妻もやつれてきた
幼い日にも
私は聴いていた
うしろ姿をみせて
母は米をといでいた
幼い日から私は米をとぐ音を聴いてきた
秋の夜 冬の夜
せっせと米をとぎながら
日本の女たちは何を考えていたろうか
何を考えながら米をとぎできたろうか
女たちは幸せだったろうか
――サクサク サクサクサク
あすの朝餉の
妻は米をとぐ
うしろ姿を見せて
私がみているのも知らないで
手
おまえの手は荒れてしまったね
ひびがささくれだち
くすり指にかがやいていた
指輪もなくなってしまったね
指輪のゆくえを
私はきくまい また言うまい
昔は楽しかったと お前も若く
その手もしなやかで美しかったと
おまえの荒れた手をみるのは哀しい
血がふいているその手は
さながらきょうの私達の生活(くらし)のようだ
しかもその手は冬にやられて決して敗けない
荒れたおまえの手よ 私は視る
百千の世の妻達の手を
どんな世にもかわらない女の愛を
必死にその手があたえてきたことを
妻
何ということなく
妻のかたわらに佇(た)つ
煮物をしている妻を見ている
そのうしろ姿に 若かった日の姿が重なる
この妻が僕は好きだ
三十年いっしょに暮らしてきた妻
髪に白いものがみえる妻
口に出して言ったらおかしいだろうか
――きみが好きだよ
青年のように
青年の日のように
この3編はもともと連続したものではなく、テーマが一貫していると思ったので私が選んで並べたものです。
最初の「米をとぐ音」では、「秋の夜 冬の夜/せっせと米をとぎながら/日本の女たちは何を考えていたろうか/何を考えながら米をとぎできたろうか」と問うていますが、「手」では「荒れたおまえの手よ 私は視る/百千の世の妻達の手を/どんな世にもかわらない女の愛を/必死にその手があたえてきたことを」と答えています。
そして「女たちは幸せだったろうか」という問いには、男が直接答えるわけにはいきませんが、「この妻が僕は好きだ……青年のように/青年の日のように」と愛をもって答えています。
大木さんにとって奥さんはいうまでもなく、「かけがえのない存在」です。おそらく奥さんにとってもそうでしょう。
こういう愛情深い母や妻、女たちに支えられて日本の男たちも一所懸命に生きてきたのです(もちろんそうでない男も、そうでない女もいたわけですけどね)。
こういう愛のかたちはうつくしい、と私は思うのです。
「かけがえのない存在になりあうこと」ことこそ、ほんとうの〈自己実現〉ではないのでしょうか。
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