好きな詩・詩人5 石垣りん

2007年09月12日 | いのちの大切さ

 石垣りんさんとは、一度だけ電話でお話をさせていただいたことがあります。

 編集者時代、原稿をお願いした時のことです(残念ながら断られましたが)。

 「鈴を振るような声」と評判のお声は電話でもまさに鈴を振るように美しい声でした。

 その頃、詩人の方たちが自作を朗読する会があったようで、石垣さんの朗読の時行ってみたいと思いながら、忙しさにかまけて機会を逸してしまいました。

 残念なことをしたな、と今でも思います。

 石垣さんの詩は、どこかで次の詩を読んで感動し、『石垣りん詩集』(思潮社)を買ってきて、それ以後愛読してきました。


    私の前にある鍋とお釜と燃える火と

                 石垣りん

  それはながい間
  私たち女のまえに
  いつも置かれてあったもの、

  自分の力にかなう
  ほどよい大きさの鍋や
  お米がぷつぷつふくらんで
  光り出すに都合のいい釜や
  劫初(ごうしょ)からうけつがれた火のほてりの前には
  母や、祖母や、またその母たちがいつも居た。

  その人たちは
  どれほどの愛や誠実の分量を
  これらの器物にそそぎ入れたことだろう、
  ある時はそれが赤いにんじんだったり
  くろい昆布だったり
  たたきつぶされた魚だったり

  台所では
  いつも正確に朝昼晩への用意がなされ
  用意の前にはいつも幾たりかの
  あたたかい膝や手が並んでいた。

  ああそのならぶべきいくたりかの人がなくて、
  どうして女がいそいそと炊事など
  繰り返せたろう?
  それはたゆみないいつくしみ
  無意識なまでに日常化した奉仕の姿。

  炊事が奇しくも分けられた
  女の役目であったのは
  不幸なこととは思われない、
  そのために知識や、世間での地位が
  たちおくれたとしても
  おそくはない
  私たちの前にあるものは
  鍋とお釜と、燃える火と

  それらなつかしい器物の前で、
  お芋や、肉を料理するように
  深い思いをこめて
  政治や経済や文学も勉強しよう、

  それはおごりや栄達のためではなく
  全部が
  人間のために供せられるように
  全部が愛情の対象あって励むように


 私は右寄りと誤解されることを怖れず、機会あるごとに、「女性には女性らしくあってほしい。もちろんそれには、男も男らしくなければならないけどね」と言ってきました。

 「男と女がまるでおんなじになったら、どこがおもしろい? どこがいいんだ? 実に味気ない、つまらない世界だと思うけどね。」

 石垣さんのこの詩を読んだ時、我が意を得たりという感じでした。

 女性が女性の役割を肯定し、そもそもその意味が「それはたゆみないいつくしみ/ 無意識なまでに日常化した奉仕の姿」であることを、こんなにも深く自覚した言葉は今どきなかなか聞けるものではありません。

 しかも、それは多くの先祖たち、母たちの量り切れないほどたくさんの愛情の営みだったことが自覚されています。「その人たちは/どれほどの愛や誠実の分量を/これらの器物にそそぎ入れたことだろう」と。

 愛情の営みであるかぎり、それは単なる労働・労苦ではなかったのです。

 「台所では/いつも正確に朝昼晩への用意がなされ/用意の前にはいつも幾たりかの/あたたかい膝や手が並んでいた。//ああそのならぶべきいくたりかの人がなくて、/どうして女がいそいそと炊事など/繰り返せたろう?」とあるように、それは自分のためではなく、愛する人のためであり、そしてそれは「いそいそ」とはりや喜びをもって行なうことのできるあたたかい営みだったのです。

 そういう営みは、「女性の自己実現」だったのではないでしょうか。

 それに対する反論は山ほどあることを承知しています。また、それに対する徹底的な反論の用意もありますが、ここではそういう野暮なことはしません。

 ただ、読者にどう思うか――感じるか、そして考えるか――問いかけさせていただこうと思います。

 一言だけ、私は並みのフェミニスト以上に女性を大切に思っているという意味でフェミニストだと自認していますし、よく話すとわかってくださる女性のフェミニズムの論客も多いことを付け加えておきます。




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コメント (4)
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