いのちのつながりと重さ

2005年10月06日 | いのちの大切さ

 私たちそれぞれには、例えば40代遡ると延べ10兆人以上のご先祖さまがいますが、実数はもちろんそんなにいるわけではありません。

 それどころか、昔の日本の人口は、縄文時代2万人、弥生時代59万人、奈良500万人、平安650万人、鎌倉700万人、江戸末期3200万人くらいと推定されています(鬼頭宏『環境先進国・江戸』PHP新書)。

 その人数のご先祖さまから現在の1億2千万人あまりが生まれたのですから、日本人はほとんどどこかで重なった共通の先祖を持つ遠縁の親戚だと思っていいようです(複雑になるのでここでは帰化人の話などは省きますが)。

 それどころか、最近、もしかすると全人類が1人の共通の女性「ミトコンドリア・イヴ」から生まれたのかもしれない、という説もあるくらいですから、人類はみんな親戚だと思っていいのです。

 実際の教室では、学生諸君に、「あの人も、この人も、みんな親戚なんだよな、すごい遠縁かもしれないけど」と思いながら、まわりの人の顔をしみじみ見てください、という小さなワークを行ないます。

 ネット学生のみなさんも、よかったらまわりの人の顔を、「親戚なんだな」と思いながら見てみてください。

 ただし、知らない人をあまりジロジロ見ると、いろんな風に誤解されますから、そのあたりは注意して、適当にやってください。

 それはともかく、親だけでなくそうしたご先祖さまの1人1人も、善人だろうが悪人だろうが、美人だろうがそうでなかろうが、私たちは自由に選ぶことはできません。

 ここで、すぐに親孝行や先祖崇拝の話をするつもりはありません。

 しかし、こうした無数のいのちのつながりの中で私のいのちが生まれたことは「事実」だ、ということに気づいていただきたいのです。

 あまり好きでない親だとしても、親から生まれた、まったく知らない先祖だとしても、私たちは自分のいのちを先祖から引き継いでいるのです。

 現代では「関係ない」と思っている方が多いようですが、実はそれは「関心がない」だけで、事実としてはまぎれもなく、いやおうなしに「関係ある」のです。

 そういうことはみな過去のことで、今感覚的には実感がないとしても、よく考えれば――つまりしっかりと理性を働かせて推測すると――ほぼ疑いようがないことだという意味で、「事実」といってもいいのではないでしょうか。

 そのことが確かに事実だと思えた方は、ちょっとだけ次のステップに進んで、考えてみてください(思えない方は、この段階ではさらっと読みとばしてもかまいません)。

 人間は、生まれただけで後は自分で生きていけるでしょうか?

 いけませんね。赤ちゃんは、できることといったら泣くこととおっぱいを吸うことくらいです。

 しかもおっぱいも口のところまで持ってきてもらわなければ、自分で探して吸うことはできないのです。

 そのくらい無力な状態で生まれてくるというのは、動物としてはかなり特殊なことのようです。

 ウマの赤ちゃんなど、生まれて間もなく立ち上がってよちよち歩きをはじめますし、すぐに母ウマの後から走るようになります。

 おサルさんの赤ちゃんなど、生まれて間もなくもうお母さんの背中にしっかりとしがみついて、お母さんが木から木へとジャンプしても振り落とされないくらいの力があります。

 ところが、人間はまずは「おんぶにだっこ」で、さらに1人前になるのには10年以上20年くらいかかります(最近は、もっとかかる人が増えているようです)。

 さて、この養育期間、母親と父親は子どもために必死に働きます(もちろん残念ながら例外はありますが)。

 生み、そして必死になって育てることを、何と表現すればいいでしょう?

 努力、苦労……いろいろあるでしょうが、それらは結局、「愛情」ということに尽きるのではないでしょうか?

 もしあなたの両親から祖父母、曽祖父母……ご先祖さまのだれかが、最近かなりよく聞くような「結婚しても、子ども生んでも、お金がかかったり、自分のやりたいことをやれなくなって、何のメリットもないから、結婚もしないし子どもも生まない」というセリフをいって、いのちを次の世代につなぐことをサボったら、恐ろしいことですが、今日ここにあなたはいない……んですよね?

 私たちの無数のご先祖さまは――若干の例外はあるにしても――みんな、必死になって次の世代のために、努力、苦労し、愛情を注いでくれたのではないでしょうか。

 考えてみてください。例えば原始時代、例えば古代、いや、日本でいえば江戸時代や戦前でさえも、子どもを育てるというのは、けっして楽々できるようなことではなかったはずです。

 飢え死にさせないように、「食べさせる」だけでもきわめて大変な時代がずっとあったのです。

 そういう時代に生きた、そういう無数のご先祖さまの努力、苦労、愛情が、いのちを私にまでつなげてくれました。

 言い方を代えれば、私たち1人1人は、数え切れないほどのご先祖さまたちの「愛情の結晶」ともいえるのではないでしょうか。

 数え切れない数の人々の愛と努力の結晶を、だれが「意味がない」とか「価値がない」とか「生きていても死んでもおなじようなものだ」とかいえるでしょう?

 私たちのいのちは、そうした無数のご先祖さまたちの大変な努力の結晶、深い愛情のプレゼントなのですから、「重い」というほかないのではないでしょうか?

 「軽いほうがいい」、「軽く考えたほうが気が楽だ」と思っているみなさん、よかったら、ちょっとだけ考えてみてください。

 存在の価値がすごく軽い自分と、きわめて重い自分と、どちらが自信が持てますか?

 あなたは、自信を持ちたいと思っているんじゃないんですか?

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