散歩者goo 

タイトルのgooは、同名のHPやブログと区別の為付けてます。HPの「散歩者」はこのブログ筆者の私とは全く無関係です。

政治が熱くなる時の議論の仕方 

2011年11月02日 19時19分25秒 | エッセイ &余談 ・短感・片言雑事
政治問題では、議論が鋭く対立することが多い。又選挙になると多くの支持者どうしが敵見方という対立関係になる。

意見の対立は政問題にかかわらず、ありとあらゆるところにある。例えば私の場合、が若い頃に横円筒型の電気炉の足を設計していた時、上司にこの足のほうがかっこいいから、これを使えと言った。そのとき私は現代的な理化学機器に、仏壇の足のようなデザインはおかしいと思い、板金で炉の足をシャープな形に設計していた。そのことで上司と口論になった。

私がまだ20歳前ぐらいの時で、上司から見れば経験も無いくせに、生意気な若造に見えたに違いない。私にすれば、部品図もない既製品のs字型に曲がった足をスケッチし縮尺するだけで時間がかかり、その上組み立て図に縮尺して図面化するのは大変だと思った。板金で直線に折って溶接するほうがよほどトータルの設計と現場作業の時間が少ないし、デザイン的にもすっきりとして優れていると思って譲らなかった。当然上司は、従わせようとして、余計に激しい口論になった。口論していて途中で、部長が割って入った。

その後、しばらくの間上司との間の空気が悪くなったのは言うまでもない。しかし今から思えば、つまらぬところで我を張ったものだと思うが、同時に、改善しようという意欲のない上司の感覚もいかがな物かとも思っている。

このように、議論による対立は政治経済から、組織の運営や経営、果ては家事の仕方全般まで、日常付きまとう。しかもお互い上下関係がない場合は、経験的にいうと、人間関係で議論のあり方が変わると思う。お互い親密な場合は妥協点を探して折り合いをつけるか、どちらか一方が折れて、ことが収まる場合が多い。その前提にあるのはお互い又は、どちらかが相手を信頼又は理解しているということだと思う。この場合は、人間関係にひびが入ることはない。

ところが、お互い自己主張が強くお互い親しくない場合、徹底的に自分の主張を通そうとし譲り合わない。ましてや、元々不仲の場合は、小さな意見の違いですら、大きな議論になる。すなわち、相手をライバルと意識し、勝たねばならないと思い込むのである。

しかし世の中のすべての問題は。科学技術や学術的関係では正解か間違いかはっきりしているが、それ以外の場合は、ほとんどの場合問題の解決方法や議論の仕方は、複数あるのが普通だ。事実政治は妥協で成り立っている。政治問題の場合は個人の価値観で変わる。価値観は、信仰と同じで客観的な意味での絶対というのはない。ある人にとっては、絶対的な価値観も別の人にとっては、とるに足らないことも普通だ。

したがって、価値観を中心に話をすると議論がかみ合わないことになる。そのような議論が加熱すると、お互いの価値観の否定に発展し、挙句の果て人格否定に繋がる議論から感情的になり、大喧嘩に発展する。

このようになるのでは議論する意味がない。議論する限りは、政治的な議論の積み重ねや弁証法的論理の積み重ねで、その時点で最適な妥協点を見出すしかない。

そのためには、議論する前にお互いの前提となる価値観を知っておくことも大事だ。誰でも自分の価値観を全否定されると自分の存在がなくなるのと同じで感情的になり、怒ったり攻撃的になる。それと議論は論理的に議論を戦わすことが必要だ。論理的に議論を進めるためには、正確な根拠や事実や証拠が基となる。そのような裏づけなしの議論は、砂上の楼閣、夢物語に過ぎないし、そのような議論で決まった結論は、使い物にならない。ただし、創造性を高めたりやアイデアを出す為のブレーンストーミングは逆にそのほうが望ましい。

また、議論になれるために、ディベートの手法もいいかもしれない。始めから議論で勝ち負けを決めることにしておけば、ディベートで負けても人格否定にはならない。

これから、選挙や、都構想問題、や独裁発言の真意やTPP問題その他で議論することは、多くなる。議論するごとに、不仲になり、敵対関係になるのは良くない。昔政治的指向性の強い(党派的)友人たちが多かった時期があった。あるとき彼らの考え方に対し、批判的な発言をした。すると、関係者が一時私の周りからいなくなった。その時、こんな心の狭い人達と付き合うのはやめようと思った。しかし、時間がたち、様々な思想や考え方に触れるにつれ、考え方が変わった。

人は多面的であることに気付いたのだ。例えば、反原発であっても、無宗教人もいれば、信仰深い人もいる。又リベラルな人も、性に厳しい人と性に開放的な人がいる。保守であっても、自由主義の人と、国粋主義的傾向のある人では全く違う。このようなことに気付いて以来、私は出来る限り意見の違う人と、根気よく付き合おうと思った。

上記の例のように人はいろいろな側面を持っている。議論する時、あいつは敵だ、(ディベートでは論理的勝ち負けがルールなので意見を戦わすが、訓練でわざと自分の心情と逆の立場で冷静に論理的にディベートすることが多い)と考えずに、あなたのこの問題に対しての、立場や意見は理解したけれど、私はこの理由でこのように考えるという姿勢を保つようにしている。今後ますます、いろんな人からの政治的発言は多くなるだろうが、意見の違う人とも出来る限りお互いの意見や立場の違いは認めたうえで、友達づきあいをするようにしたいものだと思う。

コメント    この記事についてブログを書く
« 私のささやかな抵抗 | トップ | TPPと農業問題・経営革新 »

コメントを投稿