散歩者goo 

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昨日記131029火(Jomonと原田要の庭展 縄文文化 京都の画廊回り)

2013年10月30日 17時41分13秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
天気:曇 0.0mm  18.7  15.2℃ 72% 2.0m東北東 

昨日は、午後から京都に出かけた。
始めに、以前画廊で偶然出会い手渡しで案内をもらった、原田要さんの「Jomonと原田要の庭展」に行った。
案内がA4サイズを縦方向に2枚分印刷して折ってある、立派なもので、そこには原田さんの作品と、縄文土器が掲載されていた。
原田さんの作品は何度もみていて、お話も伺ったこともある。
それと縄文土器との組み合わせにとても興味があった。
縄文土器に関しては、多分去年?初めて大阪府立弥生博物館で見て非常に感激したし、縄文時代関係の考古学文献を何冊か読んだので、大いに興味があった。

ただ、縄文文化が、日本文化に強い影響を与えているという人もいるが、考古学的に見て影響の度合いが、影響は当然ある程度残っているだろうが、非常に強いかどうか、私は疑わしいと考えている。
縄文時代は約1万年近く続き、中期には人口が増え東日本で独特の文化が形成されたが、縄文晩期には、人口も大きく減少し衰退している。
現に弥生時代初期には、各地に縄文時代の文化(稲作農耕をしていない地域)が残って居るが、次第に弥生文化(稲作農耕文化)に吸収されていく。
(東北の一部)北海道は弥生時代から古墳時代にかけて続縄文文化として残る。
古墳時代以降東北では、大和朝廷対、大和に服属しない和人文化の影響を受けた蝦夷、という対立関係になるが、大和朝廷は勢力を拡大し続け、鎌倉時代の奥州藤原氏の滅亡で大和に吸収される。(例:多賀城は東北の蝦夷攻略の軍事基地の最前線であった。)
その後北海道ではアイヌ文化が成立するまでは、擦文文化(北海道南部)となる。
アイヌ文化は、オホーツク文化や擦文文化が混ざり13世紀頃に成立したとされる。

会場の京都造形芸術大学へ行くのは、建築家の塔本研作さんの卒展(彼は学長賞をもらった。)と、塔本シスコさんの展覧会以来、3回目である。
メイン会場では、原田さんの作品のみが展示されてあった。
過去の作品と新作も含め展示されていて、原田さんも居られた。
別のスペースで縄文土器と原田さんの作品が並べて展示されていた。
原田さんの作品と、縄文土器を一緒に並べてみても、全く違和感がなかった。

縄文土器の造形に関しては、いろいろな方面から分析や解釈がなされているが、立派な論考の中にも、考古学的な見地を取り入れると、間違った解釈がなされているのではないかと思われる説もある。
縄文社会の祭祀や精神性を見出すのは、考古学的成果を踏まえて行わないと、単なる小説になってしまう。
そうした問題はともあれ、縄文土器(特に中期・中部から東日本)の造形に誰しもが原始的生命力を感じる。
原田さんの作品を縄文土器と並べても、違和感が無いということは、同じような生命力を感じさせる彫刻といえる。
事実、中央の部屋の作品群からは、力強い生命力を感じた。

昨日は、ついでに三条界隈の画廊も見て回る積りだったので、一旦叡山電鉄で茶山から出町柳、そして京阪三条まで戻り、地下鉄で蹴上まで行った。
蹴上から歩いて、すずき、ニジ、モーニング、はねうさぎ、クンストアルツ、16、JARFO、同時代と回った。
作家と話したり、ギャラリーのオーナーや担当者の方と話すことができた。
余りにもいろんなものを見て、詳細に書くときりがないので、省略する。
すべてのギャラリーで、意欲的な作品に出会えた。
ただ、JARFOでの展示会は、同時代やARTISLONGの3ギャラリー共催でアーティスロングは遠くて、いけなかった。
昨日歩いた距離は、約4・5kmであったが、早足で歩いたため非常に疲れ、今日は足の付け根(骨盤の横・大腿四頭筋?)が筋肉痛になっている。

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