午後からジムに行った。
コアトレーニングのレッスンを受けた。
インストラクターにより、レッスンの内容が違う。
この日のインストラクターは、背面の反り上げも行った。
これは以前にも一度やってほとんどできなかったが、この日もダメだった。
うつ伏せになった状態から、両手両足を含め、体をそらすのだ。
しかし両手両足は多少床面から上がるが、顔は床についたままだ。
必死に体をそらし顔を上げようとするも、数センチも持ち上がらない。
背中の起立筋が弱いのだろう。
猫背の原因でもある。
何とか起立筋を鍛えなければと思っている。
それ以外におなかの横の筋肉(斜腹筋?)が弱いようだ。
私の知る限り多くの中高年男性が、前の腹は出てなくても、腹の横がポッコリ出ている寸胴型というより横幅が多少膨らんだ形の体系になっている人が多く、私もその典型の一人なのだろう。
レッスンの後は、筋トレとウオーキング+ランニングを20分ほど行った。
最近、日常的に歩いたり走ったりすることが、極端に少なくなり、持久力が大きく低下しているようで、時速6kmでも10分以上ハンドルにつかまらず、普通に歩けない。
走るより前に、歩行のトレーニングが必要と思っている。
したがって毎日最低30分間程度歩く努力をしたいと、思っている。
人間歩けなくなるということは、行動の自由を奪われるに等しいと感じるのだ。
ジムから帰宅後すぐに、駐車場や裏庭側の路地や表の植木鉢やプランターに大量に繫茂しているつゆ草やオシロイバナやブドウを選定した。
夜になって、炊飯器のご飯を計量盛り付けし、その後16個の冷凍ご飯を製造した。
夜は、大河ドラマを熱心に見た。
渋沢栄一のドラマだが、明治維新前後の日本の動きや西洋文化の受容過程がよくわかり、非常に興味ある。
当時の日本人は、儒教(朱子学 陽明学)・国学や蘭学を通じ、合理的に物事を考えるということが出来ていたことが、アジアでいち早く西洋文化を取り入れることが出来たのかもしれない。
そういう意味では、もともと日本文化の中にプラグマティズム的思考構造があった可能性がある。
同時に、本音と建て前をうまく使い分ける文化も持っている。
和魂洋才もその一つだろう。
現実に即してものを見たり考えたりすることも、得意だったのだろう。
やはりそういう意味では経験主義的、功利主義的なのかもしれない。
商業の発展に伴い編み出した、堂島のコメ相場といった商品取引機構や為替もその一例かもしれない。
仏教受容後に、神道との軋轢を回避するために編み出した天地垂迹説も、宗教思想面でのそうした現実主義的構造や動きに見える。
コアトレーニングのレッスンを受けた。
インストラクターにより、レッスンの内容が違う。
この日のインストラクターは、背面の反り上げも行った。
これは以前にも一度やってほとんどできなかったが、この日もダメだった。
うつ伏せになった状態から、両手両足を含め、体をそらすのだ。
しかし両手両足は多少床面から上がるが、顔は床についたままだ。
必死に体をそらし顔を上げようとするも、数センチも持ち上がらない。
背中の起立筋が弱いのだろう。
猫背の原因でもある。
何とか起立筋を鍛えなければと思っている。
それ以外におなかの横の筋肉(斜腹筋?)が弱いようだ。
私の知る限り多くの中高年男性が、前の腹は出てなくても、腹の横がポッコリ出ている寸胴型というより横幅が多少膨らんだ形の体系になっている人が多く、私もその典型の一人なのだろう。
レッスンの後は、筋トレとウオーキング+ランニングを20分ほど行った。
最近、日常的に歩いたり走ったりすることが、極端に少なくなり、持久力が大きく低下しているようで、時速6kmでも10分以上ハンドルにつかまらず、普通に歩けない。
走るより前に、歩行のトレーニングが必要と思っている。
したがって毎日最低30分間程度歩く努力をしたいと、思っている。
人間歩けなくなるということは、行動の自由を奪われるに等しいと感じるのだ。
ジムから帰宅後すぐに、駐車場や裏庭側の路地や表の植木鉢やプランターに大量に繫茂しているつゆ草やオシロイバナやブドウを選定した。
夜になって、炊飯器のご飯を計量盛り付けし、その後16個の冷凍ご飯を製造した。
夜は、大河ドラマを熱心に見た。
渋沢栄一のドラマだが、明治維新前後の日本の動きや西洋文化の受容過程がよくわかり、非常に興味ある。
当時の日本人は、儒教(朱子学 陽明学)・国学や蘭学を通じ、合理的に物事を考えるということが出来ていたことが、アジアでいち早く西洋文化を取り入れることが出来たのかもしれない。
そういう意味では、もともと日本文化の中にプラグマティズム的思考構造があった可能性がある。
同時に、本音と建て前をうまく使い分ける文化も持っている。
和魂洋才もその一つだろう。
現実に即してものを見たり考えたりすることも、得意だったのだろう。
やはりそういう意味では経験主義的、功利主義的なのかもしれない。
商業の発展に伴い編み出した、堂島のコメ相場といった商品取引機構や為替もその一例かもしれない。
仏教受容後に、神道との軋轢を回避するために編み出した天地垂迹説も、宗教思想面でのそうした現実主義的構造や動きに見える。