散歩者goo 

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2020年1月1日から3日までのこと

2020年02月05日 20時34分50秒 | 日記(昨日記・今の思い考え・行動・情況)
1月1日 水 (年賀状作り 雑煮)
朝食食事準備を終えて表の郵便受けを見ると、ほぼいつも通りの年賀状が。
昨年暮れは年賀状を出さないことに決めていて、何も考えていなかった。
というのは、TVで何度も年賀状スルーが話題になり、ブームになっていると思ったのだ。
ところが例年通りで、困った。
この時元旦で、お酒を飲んでお雑煮を食て正月気分を味わう予定であった。
予定通りのことを行うと、お酒を飲み雑煮を食べると、いつも必ず1時間程度転寝をしてしまう。
これでは年賀状の返信は翌日になりそうなので、朝食をとらず年賀状の文案を考え、昨年の年賀状のフォームの無難を差し替え、宛名の差し込みファイルのシステムが、ファイルやホルダー変更したため壊れていたので、それを再建した。
その後、年賀状を買いに郵便局へ行った。
帰宅後、試し刷りでプリント調整し、ほぼ思い通りのプリントができるようになったので、一枚ずつ手差しで年賀状をプリンタに差し込み、差し込みファイルが間違いないか確認してプリントした。
差し込みファイルは、自動で行えるのだが、以前ミスを犯し多くの年賀状の印刷ミスをしたので、それに懲りて宛名面の印刷は手差しで行うようになった。
プリントが仕上がると、すぐに郵便局に行き年賀状を投函した。
結局、昼頃にお酒を飲みお雑煮を食べ、きもちよく昼寝した。
お雑煮は365日変わらない栄養満点の副食メニューに丸もち3―4個を加えれば出来上がりだ。
むろん雑煮の時は、ご飯を食べないので後片付けが楽になる。
父親が元気なころは、一家総出(といっても両親と兄の4人)で暮れに餅をついていた。
餅つきは、もち米を蒸すところから始まり、石臼を洗ったり、もちを並べて保管する木の大きな箱を用意したり、餡を作ったり、もち米を大きな羽釜で蒸したりと準備が大変で、一日仕事だったように覚えている。
私が幼かったころは、餅を丸めるのを手伝わされ、めんどくさくて嫌だった。
どういうわけか、必ず黒豆入りの豆餅と餡子餅も作っていた。
今でも裏庭に立派な石臼がある。

1月2日 木 (9
昼頃数時間ほど大量にたまったレシートを整理した。
夕方から体を動かすため淀屋橋まで歩くことにした。
歩くと左足は軽く痛かったが、肉離れはほぼ直っているはずで問題ないと考え決行した。
しかし、天満橋につく前から強い尿意を催し我慢していたが、天満橋のビルのトイレについたときに、我慢できず少量漏らして、その後大便のトイレで後始末をした。
それですっかり意気消沈し、天満橋からメトロに乗って帰宅した。
正月早々とんだ災難だった。
これも老化の表れだが、私の尿漏れは精神的な物が原因と考えている。
というのは夜中にトイレに起きるのは1回だけだし起きないことも多い。
朝一番にでる尿の量は、日中の3倍ぐらいはあり(多分500cc以上出ていると思う)、膀胱は健全(硬化委縮していない)だと思っている。

1月3日 金(兄の最期の思い出)
このひ、遅れてきた年賀状が届いた。
早速、プリントしようとしたが、どういうわけか差し込みファイルの元のデータのアクセスのクエリーに不備が出た。
毎年出している宛先を、今年のデータに切り替えたため反映できなくなった。
そのためデータ設計からやり直し、新しく選択フィルターの項目と式を設計しなおし実行してやっと、表示できるようになった。
この一件でずいぶん手間取ったが、アクセス・クエリーのプログラム言語によるデータ処理も思い出しブラッシュアップできた。

両親が生きていたころは、兄の一家が我が家に年始に来ていた。
両親がいなくなってからは、私が兄の家にご機嫌伺に年始にいっていた。
兄が亡くなってからは、甥や姪もそれ以前からそれぞれ家庭を持ち、兄一家とも疎遠になった。
今年の正月も、いつものように誰とも接触せず何もない正月だった。
例年正月は、何もなくても気晴らしに初詣に行くのだが、今年は足が痛いので、初詣にもいかなかった。

そういえば兄はパーキンソン病で亡くなった。
私が画廊をしていた時に、銀行で外回りをしていた兄が、私のギャラリーに立ち寄った。
その時定年前であったが、すでに兄には病変が出ていた。
精悍な普段の兄とはかなり違っていた。
私は、その日ギャラリーを閉めて兄と一緒に近くの北野病院へ行こうと兄を必死に説得したが、何でもないと私の言うことを聞かなかった。
その後、定年退職してから兄は北野病院に入院しパーキンソン病と診断された。
それ以前に、兄の家でも大問題になり、家中で兄を説得しらしいが、頑として病院に行くことを拒否したらしい。
銀行でも営業実績を上げ、相応の役職についていた兄がなぜそうだったのか、今でも謎の一つだ。
兄の葬儀には、大銀行の頭取の花輪もあったのが、兄への勲章だったのだろう。
ここ数日京大で、パーキンソン病のiPS細胞移植が3例成功していることが報道されていて、今後も4例の試験治療を行うという報道が出ていた。
毎週1―2回いろんな病院(当時、国の政策で長期療養は3か月から6か月ごとに転院する必要があるようだった。)で兄の見舞いに行き、兄の病状の変化とその最期も見届けた。
最期の時は、兄はほとんど意識がなく、私が見ている前で兄の血圧が低下し脈が止まったが、看護師に連絡すると「最近よく繰り返しているので大丈夫です」と言って処置をすると、再び兄の脈が正常に戻った。(それ以前に、病院から何度も家族が呼び出され、駆けつけていたらしい。)
看護師の大丈夫という言葉を信じ、後ろ髪惹かれる思いで帰宅したが、その朝兄の家族から訃報が告げられた。
その時、病院から帰る電車の中で、脈が止まるのは異常なので引き返して兄に付き添うかどうしようか、何度も迷い結局そのまま帰宅し、最期を看取ってやれなかったことを悔やんでいたことを思い出したす。


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