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老いの途中で・・・

人生という“旅”は自分でゴールを設定できない旅。
“老い”を身近に感じつつ、近況や色々な思いを記します。

神奈川県での惨事に思う 続編  ~「やってあげる」と「やってもらう」~

2016年08月03日 19時30分07秒 | 福祉・障がい 関係
 先日の神奈川県の残酷な事件から1週間が経過しましたが、各地の障がい者の方に非常な不安感を与えたようで、福祉関係に関係ある方への衝撃は想像以上に大きいようで、私としても、色々と考えさせられることがあります。
一時的なボランティア経験はあっても、実際に毎日毎日重度の障がい者と向き合った経験が無い人間としては、この種問題に関する発言には非常にデリケートな要素が多く、気を遣うのですがのですが、沈黙したままなのもおかしく、思いつくままに少し記します。

◆まず、新聞報道などによると、害者がどのような経緯かはわかりませんが障がい者施設に勤務の経験があり、障がい者への日々の接触を重ねる中で、意思疎通が難しい重度障がい者への偏見を深めて行ったというようにうかがえることです。

◎この点に関して少しですが思い当たるのは、私がボランティアとして福祉関係に携わる際に、先輩から言われた言葉です。
「やってあげる」とか「してあげてる」とかという上から目線は絶対に不可。相手とはあくまで対等であり、逆に相手さんから教えられることが絶対にある。「何か自分が感じられる喜び」を感じとる事、そしてそれを喜びと感じることが何よりも必要。
そうすれば相手も単に「やってもらう」という受け身的な立場ではなく、一緒に何かをしている仲間だという気持になるはず“ということでした。

◎もう一つ気になるのが、犯行者がヒットラーの思想に共感した様に報じられていることで、これは現在アメリカ・ヨーロッパ各国・一部のイスラム急進派、更に日本などでも感じられる、不都合なものを排除することにより自分たちの平和が保たれるという極めて独善的或いは右翼的な考え方のまん延に影響されているようにも思われることです。

◆次に被害に遭われた方々が、新聞などでは一律に名前が伏せられていることが気になります。
確かに、被害に遭った障がい者の方々の氏名を伏せたいご遺族の方もおられるしょうから、この方々に対しては当然とでしょうし、警察側が一律の名前公表に消極的なのも理解できます。
しかし、一方で、「障がい者」として力一杯堂々と生きられていた方の中には、このように名前も伏せられたままで単なる“一被害者”として扱われよりも、(健常者が同種の事件に遭った場合のように)ちゃんと名前を出すことで、故人の尊厳が守られると考えられる方もおられるのではないかと思います。
この点については、マスコミ側のプライバシー保護を建て前にした一律的な自主規制が少いおかしいような気がします。

以上、本件の関係者でもない第三者の勝手で傲慢な見方という誹りを覚悟での私見です。(まさ)

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