いよいよこの京街道歩きの最終回です。
紅葉狩りや医者通いに忙しくて、実行の日が遅れていましたが、天候も良い12月13日に決行としました。
いつもより少し早く起きて、京阪電車で京都の三条駅を経由し、前回引き返した京阪京津線の追分駅まで行き、そこから髭茶屋追分まで戻りました。
前回は工事車両が停まっていて全容が撮れなかったのですが、今回はバッチリ。
東からくると、ここから京都市内と伏見や奈良の方向に向かう道が分れているのが良く判ります。
今回のコースとしてはここから東に向うのですが、少しだけ京の方に戻り、閑栖寺(かんせいじ)というこじんまりした寺院に立ち寄りました。
この寺院は、真宗大谷派の寺院で山名を放光山と言いますが、寺院の前に「東海道/西 京五條」という道標があり、その横に、「車石・車道」の説明板があり、車石も置かれていました。
インターネットで調べた所では、寺内に車道が復元されているとのことでしたので、案内を乞うと機嫌良く中に入れて頂き、丁寧な説明までして頂きました。(※1)
その後、本来のコースに戻り、現在の国道1号線に沿う様な形で、かっての関所があった逢坂峠を目指します。
途中に、月心寺(※2)という寺院があり、是非とも寄って見たいと思っていたのですが、生憎と門が閉まっており人の気配も感じられないので、塀の間から有名な走井を拝見したり、自由に入れる別邸の庭のような所を勝手に楽しませて頂きました。(後で調べると、拝観には10名以上での予約が必要との事でした)
そして、蝉丸神社、逢坂関所跡などを通り、大津に向って下りましたが、途中で関蝉丸神社の上社と下社というのもありました。(※3)
関所跡を過ぎてからはずっと下り坂で、楽な道のりでしたが、辿りついた目的地の大津宿本陣跡は何とも寂しく、碑と説明板があるだけ。少しがっかりしましたが、曲がりなりにもゴールです。
パンフレットでは、60.4㎞の距離を6回に分けて歩くことになっていましたが、我が家は8回に分けて達成できました。
但し、途中で道に迷ったり、寄り道したりで、気持としては70km近くを歩いた様な気分です。
最初はツレアイの調子も良くなく2回目は私単独の行動となり、果して二人で大津まで辿りつけるのかと心配しましたが、3回目からはツレアイの体調も完全に回復し、楽しそうに元気で歩いてくれました。
僅かな距離でしたが、8回に分けてでしたが二人でゴール出来たというのは大きな喜びですし、ツレアイにとっても大きな収穫だったと思います。
その後も、物忘れの程は如何ともできませんが、精神的には非常に安定しているようで、この歩きに連れ出して本当に良かったと思っています。
やはり、今後も何かと外を歩くようにします。(まさ)
(※1) 車道・車石
・街道時代の頃、逢坂山は大津港で水揚げされた諸国からの大量の荷物の京までの輸送があり、沢山の牛馬車が使用されましたが、急坂のためにその運搬には難儀していたようです。
・文化2年(1806)京都の学者・脇坂義堂が車石を並べ、荷車が通行することを発案し、近江商人の中井源左衛門が一万両の財を投じて大津から京三條まで、花崗岩の敷石(車石)を並べ、荷車が通行できるようにしましたが、その道路は車道と人道に分かれていて、京に向かって右側に車石を敷き左側に人や馬が通る道があったといわれています。
・また、石に刻まれ牛車の車の轍の跡の窪みですが、寺の説明板には牛車に拠って削られたものとありますが、別の説明では牛車が通り易いように最初から掘られていたともあります。
いずれが正しいのかは不明ですが、復元された車道を見た限りでは、当時の牛車の幅は結構広いものだった様です。
・また、別の資料によれば、牛車が通れるのは一車線の為に、時間帯によって上り下りが分けられたともありました。
(※2) 月心寺
・月心寺(山号:瑞米山)は、臨済宗系の単立寺院ですが、その周囲には走井を源として茶屋が点在していたといわれており、蝉丸法師、小野小町、松尾芭蕉、明治天皇、高浜虚子などに縁のある場所という伝えもあります。
・名水として名高い走井(はしりい)は境内の石庭にあり、江戸時代には街道が発達すると茶店が建ち並び、その名を冠した大津追分「走り井餅」が東海道大名物となります。
(因みに、「走井」とは、“湧き出て、勢いよく流れる泉。走るように湧く清水”という意味だそうです)
逢坂の関は京の都の玄関口。清浄な水の湧く走井が旅人のオアシスとなり、「走り井餅」で旅の疲れを癒し、都へ入る装いを整えたと言われています。
・走井茶屋は、明治初期まで賑わいましたが、その後茶屋は姿を消したものの茶屋旧跡は大正四年(1915)、日本画家の橋本関雪(1883~1945)が別荘として購入。関雪没後の現在は臨済宗系の単立寺院「月心寺」となっています。
・走井餅は明治末期には、同じく名水で名高い京都府の石清水のふもとに引き継がれているようです。
(※3) 関蝉丸神社(せきせみまるじんじゃ)
大津市にある神社。社格は旧郷社。上社(旧称関大明神蝉丸宮)と下社(旧称関清水大明神蝉丸宮)からなり、また分社となっている蝉丸神社との3社を併せて蝉丸神社と総称することもあるようです。
東側から見た髭茶屋追分.右が京都市内、左が伏見/奈良となります
閑栖寺
同寺前にある道標(東海道/西 京五條)
隣にある、車石・車道の説明板
閑栖寺内に復元された当時の道。右が車道(車石が窪んでいます)、左が歩道
同、色々な車石
国道1号線に沿って、上り坂が続きます
月心寺前にある道標(右一里丁、左大谷〇)
月心寺の門
塀の隙間から覗いた、走井を囲ったと言われる井戸(前の字は走と読めます)
月心寺の急な塀
月心寺。別邸に向う落ち葉に埋もれた石段
月心寺。落ち葉の庭園
蝉丸神社
同上
逢坂山関跡
道の横に架かっていた蝉丸法師の有名な歌「これやこの行くも帰るも別れてはしるもしらぬもあふさかの関」
関蝉丸神社上社
名神高速の下を通ります
関蝉丸神社下社。京阪電車京津線の線路を渡ります
ゴールの大津宿本陣跡の碑
オ津市内
紅葉狩りや医者通いに忙しくて、実行の日が遅れていましたが、天候も良い12月13日に決行としました。
いつもより少し早く起きて、京阪電車で京都の三条駅を経由し、前回引き返した京阪京津線の追分駅まで行き、そこから髭茶屋追分まで戻りました。
前回は工事車両が停まっていて全容が撮れなかったのですが、今回はバッチリ。
東からくると、ここから京都市内と伏見や奈良の方向に向かう道が分れているのが良く判ります。
今回のコースとしてはここから東に向うのですが、少しだけ京の方に戻り、閑栖寺(かんせいじ)というこじんまりした寺院に立ち寄りました。
この寺院は、真宗大谷派の寺院で山名を放光山と言いますが、寺院の前に「東海道/西 京五條」という道標があり、その横に、「車石・車道」の説明板があり、車石も置かれていました。
インターネットで調べた所では、寺内に車道が復元されているとのことでしたので、案内を乞うと機嫌良く中に入れて頂き、丁寧な説明までして頂きました。(※1)
その後、本来のコースに戻り、現在の国道1号線に沿う様な形で、かっての関所があった逢坂峠を目指します。
途中に、月心寺(※2)という寺院があり、是非とも寄って見たいと思っていたのですが、生憎と門が閉まっており人の気配も感じられないので、塀の間から有名な走井を拝見したり、自由に入れる別邸の庭のような所を勝手に楽しませて頂きました。(後で調べると、拝観には10名以上での予約が必要との事でした)
そして、蝉丸神社、逢坂関所跡などを通り、大津に向って下りましたが、途中で関蝉丸神社の上社と下社というのもありました。(※3)
関所跡を過ぎてからはずっと下り坂で、楽な道のりでしたが、辿りついた目的地の大津宿本陣跡は何とも寂しく、碑と説明板があるだけ。少しがっかりしましたが、曲がりなりにもゴールです。
パンフレットでは、60.4㎞の距離を6回に分けて歩くことになっていましたが、我が家は8回に分けて達成できました。
但し、途中で道に迷ったり、寄り道したりで、気持としては70km近くを歩いた様な気分です。
最初はツレアイの調子も良くなく2回目は私単独の行動となり、果して二人で大津まで辿りつけるのかと心配しましたが、3回目からはツレアイの体調も完全に回復し、楽しそうに元気で歩いてくれました。
僅かな距離でしたが、8回に分けてでしたが二人でゴール出来たというのは大きな喜びですし、ツレアイにとっても大きな収穫だったと思います。
その後も、物忘れの程は如何ともできませんが、精神的には非常に安定しているようで、この歩きに連れ出して本当に良かったと思っています。
やはり、今後も何かと外を歩くようにします。(まさ)
(※1) 車道・車石
・街道時代の頃、逢坂山は大津港で水揚げされた諸国からの大量の荷物の京までの輸送があり、沢山の牛馬車が使用されましたが、急坂のためにその運搬には難儀していたようです。
・文化2年(1806)京都の学者・脇坂義堂が車石を並べ、荷車が通行することを発案し、近江商人の中井源左衛門が一万両の財を投じて大津から京三條まで、花崗岩の敷石(車石)を並べ、荷車が通行できるようにしましたが、その道路は車道と人道に分かれていて、京に向かって右側に車石を敷き左側に人や馬が通る道があったといわれています。
・また、石に刻まれ牛車の車の轍の跡の窪みですが、寺の説明板には牛車に拠って削られたものとありますが、別の説明では牛車が通り易いように最初から掘られていたともあります。
いずれが正しいのかは不明ですが、復元された車道を見た限りでは、当時の牛車の幅は結構広いものだった様です。
・また、別の資料によれば、牛車が通れるのは一車線の為に、時間帯によって上り下りが分けられたともありました。
(※2) 月心寺
・月心寺(山号:瑞米山)は、臨済宗系の単立寺院ですが、その周囲には走井を源として茶屋が点在していたといわれており、蝉丸法師、小野小町、松尾芭蕉、明治天皇、高浜虚子などに縁のある場所という伝えもあります。
・名水として名高い走井(はしりい)は境内の石庭にあり、江戸時代には街道が発達すると茶店が建ち並び、その名を冠した大津追分「走り井餅」が東海道大名物となります。
(因みに、「走井」とは、“湧き出て、勢いよく流れる泉。走るように湧く清水”という意味だそうです)
逢坂の関は京の都の玄関口。清浄な水の湧く走井が旅人のオアシスとなり、「走り井餅」で旅の疲れを癒し、都へ入る装いを整えたと言われています。
・走井茶屋は、明治初期まで賑わいましたが、その後茶屋は姿を消したものの茶屋旧跡は大正四年(1915)、日本画家の橋本関雪(1883~1945)が別荘として購入。関雪没後の現在は臨済宗系の単立寺院「月心寺」となっています。
・走井餅は明治末期には、同じく名水で名高い京都府の石清水のふもとに引き継がれているようです。
(※3) 関蝉丸神社(せきせみまるじんじゃ)
大津市にある神社。社格は旧郷社。上社(旧称関大明神蝉丸宮)と下社(旧称関清水大明神蝉丸宮)からなり、また分社となっている蝉丸神社との3社を併せて蝉丸神社と総称することもあるようです。
東側から見た髭茶屋追分.右が京都市内、左が伏見/奈良となります
閑栖寺
同寺前にある道標(東海道/西 京五條)
隣にある、車石・車道の説明板
閑栖寺内に復元された当時の道。右が車道(車石が窪んでいます)、左が歩道
同、色々な車石
国道1号線に沿って、上り坂が続きます
月心寺前にある道標(右一里丁、左大谷〇)
月心寺の門
塀の隙間から覗いた、走井を囲ったと言われる井戸(前の字は走と読めます)
月心寺の急な塀
月心寺。別邸に向う落ち葉に埋もれた石段
月心寺。落ち葉の庭園
蝉丸神社
同上
逢坂山関跡
道の横に架かっていた蝉丸法師の有名な歌「これやこの行くも帰るも別れてはしるもしらぬもあふさかの関」
関蝉丸神社上社
名神高速の下を通ります
関蝉丸神社下社。京阪電車京津線の線路を渡ります
ゴールの大津宿本陣跡の碑
オ津市内