鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.9月取材旅行「桐生~水道山公園~大間々」 その17

2012-10-25 05:20:09 | Weblog
『大間々町誌通史編上巻』によれば、芳賀市三郎の『天保巡見日記』の中に「はね滝」のアユ捕りについての記述が出てきます。その文章は次の通り。「鮎魚数千頭来てこの滝にさかのほる。…漁人岩頭に立て網を以て受て不労(ろうせず)して一瞬之間に数百頭を得る。」崋山がここに来たのは天保2年(1831年)。芳賀市三郎がここに来たのが天保9年(1839年)。そのような渡良瀬川の「はね滝」てせの鮎漁がいつまで続いたかは知らないが、このような鮎漁はずっと昔から近辺の人々によって行われていたものであるに違いない。前掲書によると、現在の大間々町がある一帯はかつては「吹払野」と呼ばれる原野であり、それが慶長年間(江戸時代初期)に開発されていくわけですが、その開発は「高津戸村からの分村」という形で行われたのではないか、とのこと。つまり高津戸村の一部の人々が原野を開発して農地を切り開いていったというのです。その一部の人々というのが「大間々六人衆」または「草分け六人衆」と呼ばれる人たちであり、すなわち高草木(たかくさぎ)津島・大塚城四郎・長沢伊織・金子修理・須永逸平・佐藤太郎左衛門の6人でした。この高津戸村というのは、大間々から言えば、渡良瀬川を「高津戸の渡し」で東へと渡った、要害山の南側にある村であり、崋山は「これ天正の頃里見一族の居住せし所といふ。居城の地は山上にて、むかしはいかに称えしや、今ハ要害山とて上、八幡(今金毘羅)あり」と記しています。崋山はその高津戸村から要害山に登ってから下山、山下に「里見十二騎の墓」があると聞いたものの日暮れに近かったのでそこには立ち寄らず、高津戸村から渡良瀬川岸の崖を下って「高津戸の渡し」へと至ったのです。ということは、「はね滝」でずっと昔から夏になると豪快な鮎漁を行っていた人々は、高津戸村の人々ではなかったかと思われてきます。 . . . 本文を読む