鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.9月取材旅行「桐生~水道山公園~大間々」 その13

2012-10-19 05:27:53 | Weblog
要害山から下り、高津戸の渡しで渡良瀬川を越えて大間々に至った崋山は、大間々を次のように描写しています。「此わたりは大間々とてむかしは村なりけるを、今は人家稠密になりて機織をもはらとす。月六たび絹糸の市をなし、遠き村々よりも人いりつどいて、終に上にも村とハ称サズして町とハ申せしとぞ。街凡十町あまり、家六七百戸にあまりぬらん。これも又酒井大学頭殿の領地なり。」「月六たび」の市とは四・八の日に行われる「六斎市」のこと。文政11年(1828年)の家数が689軒だったから、「家六七百戸」とするのはほぼ正しい。「これも又酒井大学頭殿の領地」というのは、桐生新町もそうだがこの大間々町もまた出羽松山藩の領分であるということ。「絹糸の市」と記していますが、大間々が享保16年(1731年)以後、原料糸の供給市場へと性格を変え、糸繭市場として繁栄していった町であることは以前に触れた通りで、その「原料糸の供給市場」「糸繭市場」としての大間々の町の性格を的確に捉えたもの。同行している岩本茂兵衛から、くわしく聞いたことであるのかも知れない。大間々は「桐生機業地への原料糸供給市場」であったからです。しかし崋山は触れていませんが、大間々にはもう一つの町の性格がありました。それは足尾銅山街道沿いの「荷継宿」の一つであったということです。「銅山街道」とは、幕府御用銅の江戸ーの輸送ルートのことであり、足尾の銅は花輪・大間々・大原などの「荷継場」を経て利根川の前島河岸(元禄年間以降)へと陸路運ばれ、前島河岸からは利根川・江戸川水運を利用して江戸浅草の蔵まで運ばれていきました。そのことを崋山が同行する岩本茂兵衛らから聞いて知っていたかどうかは、記録の上からはわかりません。 . . . 本文を読む