鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.10月取材旅行「桐生~小倉山~要害山」 その2

2012-10-31 05:15:11 | Weblog

 まもなく右手方向にやや小高い山の連なりが見えてきました。その波のある稜線の一番高いのが吾妻山であるようです。先ほどのJR桐生駅前の観光案内マップには標高が「481m」とありました。

 それから3分ほどで前回歩いた道へと合流。

 「おりひめバス」の「丸山下」バス停脇を通過したのが7:30でした。

 この「丸山下」バス停を通過してすぐに、右手へと折れる道があったので、その道へと入ってみることにしました。

 まもなく踏切を越えることになりましたが、これが上毛電鉄の踏切。その踏切を越えると道はゆるやかに左方向へとカーブします。

 その道はやがて北側にある山裾に沿って延びていくのですが、まもなく左手にあった掲示板を見てみると、それには「堤3丁目104町会掲示板」とあり、その掲示板には「白髭神社秋季大祭」の案内が画鋲で留められていました。

 「聖フランシスコ修道院」と記された看板の前を過ぎてまもなく、右手の山へと上って行く細い舗装道路があったので、それが小倉山へと上って行く道ではないかとあたりをつけて、右折してその坂道を上がって行くと、山の斜面に造成されたかなり広い住宅地(新興住宅地)内へと入っていくことになりました。

 「案内図」と記された大きな案内板があったので、それを見てみると、この団地は「青葉台」といい、住所は「堤町三丁目」になる。

 この「案内図」がある現在地は、「聖フランシスコ修道院」の裏手(北側)の西端になります。

 住宅は斜面の上へとずらりと並び、一番上の区画が16番地(つまり堤町三丁目16番地)であることが、この「案内図」からわかります。

 この「青葉台」という団地のある山の名前は、この「案内図」にはどこにも記されていません。

 しかし、私はこれが小倉山であるだろうとほぼ確信しました。

 というのは、団地内の坂道をずんずん上がっていくにつれ、南側を中心に、まわりの展望がどんどん開けてきたからです。

 ここから見える眺望は抜群であり、南側斜面だから日当たりもいい。

 斜面に住宅が並んでいるから、各家の窓からは関東平野の広がりを眼前に見晴るかすことができるというもの。

 さらに道なりに進んで行くと、カーブになっているところの突き当りに駐車スペースがあり、その向こうに上へ登れる遊歩道があるような気配がありました。

 ということでその駐車場の奥へと進んでみると、案の定、比較的新しい整備された階段があったので、それを上がっていったところ、真ん中に穴が開いた敷石(礎石)などが置いてある広場があったものの、その広場は何の変哲もないもので、その上へと遊歩道が延びているということでもありませんでした。

 つまり登山道か遊歩道かと思われたその整備された階段は、その広場のところで行き止まりになっていたというわけです。

 この広場からの眼下の景色は、樹木の繁りに隔てられており、眺望が大きく広がるというものでもありませんでした。

 では、この広場は何のために設けられた広場なのか。結局わからずじまいで、中途半端な気分を味わいながら、その階段を下って、先ほどのカーブのところに出て左折。

 するとすぐに、左手に切り通しの峠道のような細い道が現れました。

 四輪車が入れるような道幅ではなく、車止めの柵があるから、自動二輪車なども入れないようになっています。

 一般的に峠道は、山の頂きを越えていくというものではないから、この山が「小倉山」であるとすると、この細い道が「小倉山」を越えるかつての「小倉峠」であるかも知れない(もちろんかつての小倉峠の道筋そのままではないかも知れませんが)と思い、その薄暗い山道へと入って行くことにしました。



○参考文献
・『毛武と渡邊崋山に関する新研究』(眞尾源一郎)
・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)



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