鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.9月取材旅行「桐生~水道山公園~大間々」 その4

2012-10-04 05:57:00 | Weblog
崋山が大間々の要害山に赴こうとした理由の一つは、桐生の漢詩人佐羽(さば)淡斎(1771~1825)が、小倉山という丘に建てた別荘「十山亭」に建立した詩碑(「十山亭詩碑」)に興味を持ったからだろうと思われます。10月14日に岩本家の主家にあたる玉上甚左衛門を訪ねた時に、その佐羽淡斎や「十山亭詩碑」のことが話題に出たようだ。この詩碑の書は、玉上甚左衛門が、唐代の書家顔真卿(顔魯公)の文字を集めて書いたものでした。16日、崋山一行は堤村を経て小倉山に登り、その「十山亭」という別荘を訪ねてみましたが、別荘は風雨のために壊れてしまい形を失っていました。傍らに建立されていた「十山亭詩碑」は要害山に移されており、すでにそこにはありませんでした。小倉山上は近辺でも随一の景勝地であり、そこからは「十山」すなわち赤城・三国・妙義・榛名・浅間・日光・碓氷・破風・三峰・富士山を一望に見渡すことができました。だから佐羽淡斎は、その別荘を「十山亭」と名付けたのです。佐羽淡斎とは二代佐羽吉右衛門のことで、織物買次商を営み、薄利多売の商法で繁昌。漢詩をよくする文化人でもあり、全国各地に自作の詩碑10基を建立したという。また江戸歌舞伎の中村・猿若・市村三座の元締でもあったとのこと。文政8年(1825)に没しているから、崋山が桐生を訪ねた時には、すでに(6年前に)亡くなっていたことになります。 . . . 本文を読む