鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.9月取材旅行「桐生~水道山公園~大間々」 その2

2012-10-01 05:51:37 | Weblog
崋山はなぜ「桐生町より西なる山」や大間々の要害山に登ろうとしたのか。キーワードは「地勢」という言葉。雷電山の頂からの眺望を、崋山は、「桐生の地勢手にとるばかり見わたさる」と記し、また「地勢をうつし終りて…」とも記しています。「地勢」とは「土地のありさま」「山・川・平野・海など地理的事象の配置のありさま」のこと。「地理的配置」といっていいかも知れない。桐生町の「地理的配置」つまり「地勢」を知るためには、高いところに登って、そこから全体を俯瞰するに如くはない。崋山は「四州真景」の旅の際にも、銚子の町を俯瞰するために町の西側の台地上にあがり、そこからの景観を写生しています。田原の城下町に赴いた時にも、近くの蔵王山に登っているはずです。彼は10月21日から23日にかけて足利に赴いていますが、その時にも足利郊外の山に登り、足利の町を俯瞰。そこで「此地の地勢をうつしとりて」、宿に戻っています。高いところに登り、その地の「地勢」を俯瞰し、その「地勢」を写生するというのは、崋山にとって、たんなる絵画的な写生にとどまらず、その地の「殷賑」(経済的な繁栄)がどういう「地勢」によってもたらされているかを知るためのものでもあったと思われます。 . . . 本文を読む