鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.9月取材旅行「桐生~水道山公園~大間々」 その8

2012-10-12 05:39:34 | Weblog
桐生新町の成り立ちの概略については、「桐生本町一、二丁目まち歩きマップ」の「本町一・二丁目」の解説が参考になる。それによれば、この桐生新町あたりは、江戸時代初期においては「赤城森」を含めて「荒戸原」と呼ばれていた未開拓地であり、桐生川が山間から平地に出たところに久方村や荒戸村といったわずかな集落があったようだ。徳川家康の領地となった桐生領を治めるために、代官大久保長安の手代大野八右衛門が派遣されてきましたが、彼は「赤城森」といわれていた現在の天満宮の地に、久方村の梅原天神を遷し、さこを宿頭にして南へ一直線の道路を拡幅。その両側に人々を住まわせました。そして本町六丁目までの町並みが完成したのが慶長11年(1606年)頃のことでした。道路の両側の土地を間口およそ6間(約10.8m)、奥行き40間(約72m)に区割りし、これを一軒前として、支配下の各村から積極的に分家させたり、近隣から入植者を募ったりしたと考えられているという。『大間々町誌通史編上巻』によれば、桐生新町が桐生領54ヶ村の絹織物の生産・流通センターとして目覚ましい発展を遂げるようになったのは享保16年(1731年)からのことで、また出羽松山藩酒井家の「別封」となったのは安永8年(1779年)のこと(山田・勢田両郡内で5千石を加増される)であり、出張陣屋として桐生陣屋が完成したのは天明5年(1785年)のことでした。崋山が「封ハ三百七十石、その税定額十倍すといふ」と記したように、この桐生新町の財力は、東北の小藩出羽松山藩の藩財政に大きく寄与することになりました。 . . . 本文を読む