鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.9月取材旅行「桐生~水道山公園~大間々」 その10

2012-10-15 05:45:01 | Weblog
 しばらく歩いて現れた案内標示が、「←天王宿駅 ↑運動公園駅」というもの。「天王宿」は上毛電鉄の駅であり、「運動公園駅」は「わたらせ渓谷鉄道」の駅。上毛電鉄は西桐生駅が始発終着駅で、わたらせ渓谷鉄道はJRT両毛線桐生駅が始発終着駅。桐生にはほかに東武桐生線も入ってきているから、絹織物で栄えた桐生の重要性がこの鉄道網からも察せられます。

 右手に岡登神社を見て、やがて「わたらせ渓谷鉄道」の踏切を越えると、沿道で目だってきたのが「ぶどう園」の看板と直売店。

 このあたりはぶどうの生産地でもあるのです。

 やがて通りは「わたらせ渓谷鉄道」の線路と平行するようになりました。その「わたらせ渓谷鉄道」の樹木を隔てた向こう側の下には渡良瀬川が流れています。

 「みどり市」域に入ったのが11:24。

 まもなく「みどり市 大間々町 ↑小平鍾乳洞7km ↑コノドント館2km」と記された看板を右手に見掛けました。

 左手にあった「ベイシア」という名前の郊外型大型ショッピングセンターでトイレおよび昼食休憩を済ませ、「大間々6丁目」交差点で右折(12:02)。

 通りをしばらく進んだところ、左手に古い石製の常夜燈と案内板がありました。

 その案内板には「五町目常夜灯」とあり、それによればこの常夜灯は文化10年(1813年)に、本町通りの中央を流れる堀のところに設置されたもの。

 しかし明治10年(1877年)、堀が埋められるにあたり、数十年間、町に灯りを燈し続けた常夜灯は、四丁目の常夜灯と並んで神明宮の参道に移設されることに。

 しかし最近になってそれらの常夜灯は町の歴史と文化のシンボルとしてその価値が見直され、多くの人々の協力により「里帰り」をすることになったというのです。

 そして最後に「二〇一〇年三月『三方良し』の会」と記されていました。

 「三方良し」とは、「近江商人」の「商法」の基本理念として知られている言葉。

 この大間々町の商人たちのルーツの一つが、「近江商人」であるらしいことを示唆する語句でした。

 文化10年に本町通りに設置されたということは、この常夜灯は崋山一行が大間々を通過した時に目にしていた常夜灯ということになり、そしてその当時、大間々のこの本町通りの中央には堀が流れていたことになります。

 その常夜灯の「竿」の部分には、確かに、「文化十年癸酉十二月」という文字が刻まれていました。

 そこからまもなく左手に見えてきた杉玉の掛かる重厚な商家が、「清酒赤木山蔵元」の「近藤酒造」の店舗であり、その先、同じく左手に見えてきたのがソフトクリームの模型と大きな釜が店先に置いてある「にほんいち醤油岡直三郎商店」でした。

 その「岡直三郎商店」の店先全体の写真を撮ろうと、通り反対側の歩道へと渡ったところ、そこにも古い石製の常夜灯と案内板があり、その案内板によると、その常夜灯は「四丁目常夜灯」であり、「五町目常夜灯」と同じく文化10年に設置され、明治10年になって「五町目常夜灯」とともに神明宮参道に移設されたもの。それが最近になって「里帰り」を果たしてここに置かれているのです。

 「岡直三郎商店」の駐車場に沿って二つの大きな白壁の蔵があって、商店はその左側にあり、「醤油直売」と記された看板があり、また「和スイーツ 醤油 ポン酢 あいす」と記された旗が立っていました。

 また店先には、「創業天明七年 にほんいち醤油 本場仕込 天然醸造」と白く染め抜かれた大きな暖簾も掛かっていました。

 「にほんいち醤油」という醤油名には、私に記憶がありました。

 私の息子が、町田の「にほんいち醤油」という古いお店があるということを知り、そこで醤油(ポン酢醤油)を買ってきたことがあったからです。

 「へぇ、町田にそんな古い醤油屋さんがあったっけ」というのがその時の正直な感想で、それまで「にほんいち醤油」という名前を私は知りませんでした。

 町田はもとは原町田といって、それなりの古い町ですが、そこに醤油醸造店があるとは思っておらず、意外な感を覚えたのです。

 その町田の醤油店と関係がありそうだ、と思い、早速店の中へ入ってみることにしました。


 続く


○参考文献
・『桐生織物と買継商─書上文左衛門家の300年─』(桐生文化史談会編)


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