鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.9月取材旅行「桐生~水道山公園~大間々」 その7

2012-10-10 05:53:14 | Weblog
 桐生市街の南側を東西に流れる渡良瀬川の向こう(南側)に延びる丘陵は、太田から桐生へと向かった時に丸山宿などが麓にあった金山や丸山に続く小高い山々であると思われます。

 崋山は、「新田金山」とか「丸山」、「かな山につゞきたる山」(丸山のこと)と記しています。

 あの丘陵の向こう側は太田市になる。。

 東側に見える山稜はのこぎりの歯のようにごつごつしたもので、左から右にかけて次第に低くなって平地のところで途切れています。

 この山稜の特徴を、崋山の絵はよく捉えています。

 その展望台の背後には広場が広がり、その奥に、手前両側に石燈籠の立つコンクリート製の「忠霊塔」がそびえていました。

 その「忠霊塔」の背後には、やや苔むした「慰霊塔」と刻まれた石造物も置かれていました。

 その「忠霊塔」や「慰霊塔」には、何の説明もなされていませんが、おそらく桐生から出征し戦死した人々の「忠霊塔」「慰霊塔」であるでしょう。

 「忠霊塔」や「慰霊塔」は、戦死した人々が生まれ育った町や村の入口であったり、あるいはその町や村を見下ろすところに建てられている場合が多いということは、今まで、各地を歩いてきて見知ってきたところです。

 「忠霊塔」のまわりをぐるっと一回りして、ふたたび展望台に戻って、桐生市街をもう一度俯瞰してから、やや南に進んだところにある「観月亭」というところで少しばかり休憩をとりましたが、ここからの眺望は先ほどの展望広場ほど開けません。

 ここから山道を下っていくと、「大川美術館」へ至ることを示す案内標示があり、それに従って下って行くとまもなく舗装道路に出たので、その舗装道路をそのまま下って行きました。

 その途中でも、右手に桐生市街が望めるところがありましたが、先ほどの展望台からの眺望ほど全体的に開けるものではなく、やはり崋山が桐生新町を俯瞰したところは、現在の水道山公園の展望広場のあたりであることを再確認しました。

 途中、右手に石段が市街へと続いているのを見掛けたので、その坂道を下って行くと、左手の敷地の一角に、「流行歌の元祖 ノンキ節の作者 添田唖蝉坊 そえだあぜんぼう(明治5年~昭和19年、本名・平吉) 隠遁の地」と記された案内標示を見つけました。

 大川美術館の近くの山の斜面にある住宅地の一画です。

 そのまま下って出たところは「桐生市立西幼稚園」の手前で、その住所は「小曽根町6─1」。水道山の南側にあたり、上毛電鉄の西桐生駅の北側に位置します。

 そこから永楽町交差点を通り、本町4丁目交差点に出たのが9:19。

 本町4丁目交差点に出たところで左折して本町通りを進み、「矢野本店」の前に戻ったのが9:29。

 そこから、「近江ズシ」(近江辻小路)に続く通りをほぼ真西へと歩いていくと、「通り」の名前を記した「恵比寿通り」という標示があり、「桐生市立北小学校」のグラウンド前を通過して突き当たったところが「山手通り」であり、「美和神社」でした。

 ということは、岩本茂兵衛家があった「近江ズシ」の付近から、本町通りを渡って西方向へと歩いていけば、その道が山裾にぶつかるところに美和神社があったことになり、美和神社は岩本家からそう遠くはないところにあったことになります(歩いて4、5分のところ)。

 現在はその間には人家が密集し小学校があったりしますが、かつては崋山の絵でわかるように、通り(本町通り)沿いに軒を並べる人家の両側は田んぼか畑地であって、その耕作地の中を走る細い道の突き当りの山すそに、延喜式内の美和神社の鳥居が見えたのでしょう。


 続く


○参考文献
・『桐生織物と買継商─書上文左衛門家の300年─』桐生文化史談会編
・『定本渡辺崋山 Ⅱ 手控編』(郷土出版社)


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