大間々は渡良瀬川の「谷口集落」として近世初頭より町場を形成し、四・八の日に月六回市立て(六斎市)する「市場集落」でした。渡良瀬川上流域をはじめとする周辺地域からの物資の集散地であり、生糸・絹・穀物・酒・油・茶・塩・木綿・薪炭などが取り引きされていました。桐生の絹市が、四・八の大間々絹市の前日、すなわち三・七日に改まったのが享保16年(1731年)の2月13日のことであり、この日が桐生絹市の初日と定められ、その後桐生新町が桐生領54ヶ村の絹織物の生産・流通センターとして目覚ましい発展を遂げていくことになりました。一方、大間々はそれ以後、原料糸の供給市場へと性格を変え、糸繭市場として繁栄していくことになりました(『大間々町誌通史編上巻』による)。文政11年(1828年)当時の家数が689軒で人別が3279人。天保2年(1831年)当時の桐生新町の人口が4100人ちょっとであったから、桐生に匹敵する規模の町であったことになります。この大間々町は、桐生新町と同様に出羽松山藩の領分でした(安永9年〔1780年〕より)。また桐生新町と同様に近世初頭(慶長年間)に新たに開発されて出来た町であって、もともとは渡良瀬川谷口の「吹払野」と呼ばれた原野であったらしい。この原野を拓いた人々は「大間々六人衆」あるいは「草分け六人衆」と呼ばれ、代々大間々の町政を担っていった人たちでした。 . . . 本文を読む