『大間々町誌 通史編上巻』に「為登師(のぼせし)」という語句が出て来ました。この「為登師(のぼせし)」とは、京都・大坂・名古屋などの糸絹問屋へ向けて移出される絹や糸を扱う商人のことで、その絹のことを「為登絹(のぼせぎぬ)」、糸のことを「為登糸」と言ったようです。ということは桐生や大間々にはこの「為登師(のぼせし)」と呼ばれる絹商人や糸商人がいたことになります。『大間々町誌 通史編上巻』によれば、天保14年(1843年)当時、大間々には368軒の農間渡世を営む世帯があり、そのうち39軒が「糸繭商」でした。この「糸繭商」の中に、京都・大坂・名古屋などの糸繭問屋へ向けて糸繭を移出する商人、つまり「為登師(のぼせし)」もいたのではないか。彼らは中山道や東海道を頻繁に往復する存在だったのではないか。桐生の「絹買継商」にも、江戸ばかりか京都・大坂・名古屋などの絹織物問屋と密接な関係を持つ者たちがいたものと思われる。前掲書には、「桐生絹を買付け対象としている都市呉服問屋たる三井越後屋」といった記述があり、「京都糸絹問屋」の「三井家」と、「桐生絹」との深い関係を伺わせます。岩本茂兵衛は京都に商用で赴く際に、崋山から彼の友人への伝言を依頼されたことがありますが(天保2年〔1831年〕4月のこと)、桐生の新興買継商岩本茂兵衛も、江戸ばかりか京都ととも深い関係を持ち、中山道や東海道をしばしば往復することがあったのではないかと推測されます。 . . . 本文を読む