鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.9月取材旅行「桐生~水道山公園~大間々」 その15

2012-10-22 05:50:34 | Weblog
 幅広の舗装道路の正面に見えるのが要害山。左側の方(北側)が高く、右側(南側)が低くなっています。

 道路標示には「←日光 ↑桐生 →大間々市街」となっており、「バイパス」と記されています。「大間々市街」から日光へと向かう道の「バイパス」(町の中心部を避ける)が、「本通り」と並行して走っていることになります。

 越えた踏切は「わたらせ渓谷鉄道」の踏切で、その手前右手のガードレールに「←高津戸峡遊歩道」と案内標示があったので、それに従って左折すると、右手に立派な神社がありました。

 参道入口の標柱には「郷社神明宮」と刻まれています。

 その参道の奥に鎮座する「神明宮」の背後には緑濃い要害山があって、その社殿の向こう側、社殿と要害山の間の下を渡良瀬川が左右に流れていることになります。

 「神明宮の由緒」によると、境内地からは多くの縄文式土器や弥生土器、「たたら」の鉱滓(こうさい)が出土し、周囲の田畑は伊勢神宮の御厨(みくりや)か大蔵保(おおくらほ)であったと思われるとのこと。

 大間々町の鎮守様として現在地に仮宮が建てられたのが慶長2年(1597年)。中興遷座をした慶長4年(1599年)より明治12年(1879年)まで、21年目毎に「式年遷宮」を行ってきたという。

 天保7年(1836年)、酒井石見守(二万五千石)が上州領分五千石の祈願所となした、とありますが、この「酒井石見守」というのは「出羽松山藩」の藩主のこと。

 「上州領分」は「五千石」であったのです。

 崋山が訪れた時は、21年目毎の「式年遷宮」が行われていた頃の「神明宮」であったことになります。現在の神明宮本殿の建築様式は、伊勢神宮と同じ「神明(しんめい)造り」であり、社殿に彫刻や彩色を施さないもの。

 崋山の見たかつての「神明宮」も、伊勢神宮正殿と同じ「神明造り」であったはずです。

 この「神明宮」、もともとは黒川郷(渡良瀬川流域)の「一の社」(「一の宮」)として境内地の「伊勢ヶ渕」に祀られたもの(貞和3年〔1347年〕)という。

 この「伊勢ヶ渕」というのは、おそらく現在の高津戸峡谷の岩礁上にあったものと思われます。

 大間々町が拓かれる際に、その鎮守として谷底から現在地に遷座されたものであるのでしょう。

 現在「高津戸橋」が架かっているあたりが、かつて「高津戸の渡し」(ここで渡良瀬川を渡る)があったところであると思われるから、その「渡し」を越えて渡良瀬川を渡った崋山一行は、崖を上がったところで右折、川の崖上の道を進んでこの「神明宮」に至ったのでしょう。

 境内に「はねたき橋方面散策道」と記された案内板があり、それには「神明の杜は神域です。虫の音、草の音、風の音、せせらぎの音に心を開き、神域の空気を感じて、静かに散策してください。」とも記されていました。

 つまりこれから歩く「散策道」は、「神域」(神明宮の境内地)であることになります。

 「神明宮」から「はね瀧」へと崋山は歩いていますが、それはこの「神明宮」の左手からの境内地を、右下から響いてくる渡良瀬川(高津戸峡)のせせらぎの音を聴きながら歩くものであったのです。

 ということでその「散策道」へと入り、「はね瀧」へと私も歩いてみることにしました。


 続く


○参考文献
・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)
・『蔵の町大間々まち歩きマップ』(企画・制作:群馬県立桐生工業高等学校 平成22年度建設科〔建築コース〕3年)


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