崋山が桐生新町の岩本茂兵衛(妹茂登の夫)家に到着したのは、天保2年(1831年)10月12日の深夜。岩本家に居住するのは当主である3代目茂兵衛、その妻茂登、その長男喜太郎、初代茂兵衛の後妻である幸(茂登にとって姑にあたる)、その使用人たち。その深夜に崋山の来着を知って駆け付けてきたのが医者津久井承宅の妻のぶ(田原藩士斎藤式右衛門の妹)。13日に酒一升を携えてやってきたのは左官助次郎(岩本家出入りの左官で、前日丸山宿で崋山一行を迎えた一人)、同じく酒一升を携えてきたのがお歌という女性(たち糸を生業としている)。北隣の酒屋近江屋喜兵衛(日野屋)の手代善助。前原藤兵衛の妻(2代目茂兵衛の時に仕えた女性)。14日に崋山が茂兵衛・喜太郎とともに挨拶回りをした「こゝろやすき人々」とは、岩本家の主家筋にあたる織物買次商玉上甚左衛門など。この日の夜も崋山を訪ねて来る人たちがいました。15日の午前、崋山は何人かの人々を訪ねていますが、誰かはわからない。その日の午後、紙と筆、そして弁当を持った崋山は、桐生町の「地勢」を俯瞰できる場所を求めて、西方に見える山へと向かい、ついに雷電山という山の頂から桐生町の「地勢」を観察し、それを写生します。この雷電山が現在の水道山のこと。崋山はこの日以後も、医者八木橋元恭・織物業田村金兵衛・その金兵衛の母親・金兵衛の妹梶・医者奥山昌庵・織物買次商栗田重蔵・同佐羽蘭渓(清助)・医者荒井玄圃・石田要助・桐生織物の図案家石田常蔵(九野)・医者津久井祐斎・紋屋左兵衛・荻野清次郎・津久井承宅の娘ぬいなど実に多くの桐生の人々と出会っていますが、これらの人々が日々の暮らしを営んでいた桐生の町全体を、崋山が雷電山の頂から俯瞰して描いた写生画が『定本渡辺崋山 第Ⅱ巻 手控編』に収められています。 . . . 本文を読む