鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.9月取材旅行「桐生~水道山公園~大間々」 その12

2012-10-17 05:36:05 | Weblog
 醤油の香りが漂うその「河内屋木道」を進むと、路地左手にポンプ井戸があり、「『三方良し』の井戸」と記された案内板が立っていました。

 再び「三方良し」という語句と出会いました。

 その案内板によると、岡忠兵衛がこの地で「河内屋」という屋号で醤油醸造を始めたのは天明7年(1787年)のことであり、その岡忠兵衛の出身地は、近江国鎌掛村(現在の滋賀県日野町)でした。

 近江商人は、「三方良し」(売り手良し、買い手良し、世間良し)の精神を守り続けましたが、この井戸も、岡商店が掘った井戸ではあるものの、周囲の人たちが自由に水を使えるようにとの配慮から、塀の外側に設置したもの。

 この井戸を『三方良し』のシンボルとして保存するとともに、災害時にも活用できるように修復整備したものが、現在のポンプ井戸であるということが、この案内板の説明からわかりました。

 また案内文の末尾には、この路地(「河内屋木道」)は、醤油の仕込桶として百年以上使い続けた杉板を再利用して作ったもの、と記されており、もともとこの路地に「木道」があったわけではなさそうですが、百年以上使われてきた「醤油の仕込桶」の杉板を再利用しているというのが面白い。

 岡忠兵衛の出身地が近江国鎌掛村(現在の滋賀県日野町)であるということから思い出したのは、岩本茂兵衛家跡地の辻一つ隔てた北側の酒醸造業「矢野本店」が、もともとは近江商人であり、日野出身であったこと。

 崋山も『毛武游記』において、「近江屋喜兵衛手代善助来る。これハ造酒家なり。かたはら味噌、醤油、質とりて業とす。本店ハ近州日野にて水口侯の領なり。店も大きやかなる家に土蔵巨大なるあり。人五十人ばかりもつかふべし」と記しており、当時「近江屋」と言う屋号で、酒の醸造販売ばかりか、味噌・醤油の醸造販売も行い、さらに質屋もやっている大商人であったことがわかります。

 二代目の矢野久左衛門が寛保2年(1742年)に現在地に店舗を構えたというから、それ以前に「近江商人」(日野出身)として桐生新町にやって来たのでしょう。

 そのポンプ井戸の斜め前(路地の右手)に平屋木造トタン葺きの建物があり、それが「銭湯千代乃湯」でした。

 さらに路地を進んで出た通りを左折すると、上部の白壁が一部剥げ落ちているものの、巨大な醤油醸造蔵がいくつか並んでいるのが見えました。

 つまり表の本町通りからこの裏手の通りまでが、「岡直三郎商店」の敷地であるということになります。

 裏手を一見した後、先ほどの路地を戻り、表通りに出たのが12:41。

 そこで左折して通りを進むと、「コノドント館」すなわち「みどり市大間々博物館」が交差点を渡った左角にありました。

 この博物館は、大正10年(1921年)に建築された「旧大間々銀行」の本館および土蔵を活用したもので、特に木骨石積レンガタイル造りの本館は、大正期の洋風銀行建築として県内でも数少ない貴重な近代化遺産だとのこと。

 この「大間々銀行」が開業したのは明治16年(1883年)のことで、群馬で最初の私立銀行であったという。

 このことからも、大間々が大変栄えたところであったことがわかります。

 桐生市街にも、明治から大正時代にかけて造られた近代化遺産としての建築物が数多く残されており、特に大正時代から昭和初期にかけて洋風の石積レンガタイル造りや鉄筋コンクリート造りの建築物が数多く造られていることを知りましたが、この大間々においても大正時代から昭和初期にかけて、この「旧大間々銀行」をはじめとして洋風建築が数多く建てられたものと思われます。

 看板には、「歴史民俗立体映像」ともあり、早速中へと入ってみることにしました。


○参考文献
・『大間々町誌 通史編上巻』(大間々町誌刊行委員会)
・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)


 


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