鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.9月取材旅行「桐生~水道山公園~大間々」 その9

2012-10-14 07:00:31 | Weblog
 桐生駅北口前を出発したのが10:00。

 「宮前町1丁目」交差点を過ぎると、右手に上毛電鉄の線路が見えてきました。その線路の向こう側の山際は、水道山の南端部。

 その水道山の左側奥に小高い山が見えてきましたが、あれが吾妻山だと思われる。

 途中、右手に見掛けた「三桝家総本舗」に「麦落雁」という文字を見て、思わず店内に入ってお土産として「麦落雁」を購入。

 こういうところに「麦落雁」を売っている店があるのが珍しい。

 あとで知ったところによると、この「三桝屋」というのは、寛永年間に館林城大手門前に創業した「御用菓子舗」であり、「三の丸本店」が館林市本町にあり、「仲町店・工場」が館林市仲町にあって、「桐生店」が、ここ桐生市宮前町にあるお店。

 「銘菓麦落雁は当家七代目丸山与兵衛が文政年間(一八二〇年代)より本郡特産の大麦を精選・焙煎し自家特選糖を用い」て「刻苦研究の末創製」したものだとのこと。

 「おりひめバス」の「丸山下」バス停を過ぎると、「→0.1km丸山下駅」の案内標示が現れました。

 そこから5分ほどで通過した交差点が「堤町3丁目交差点」で、このあたりの北側一帯、水道山から見れば西側にあたる地域が「堤町」になるようです。

 そこからまもなく現れた橋が「赤岩橋」であり、その下を流れる川が渡良瀬川。高さ20m近くもあるような断崖の間に、この橋(平成11年に完成した比較的新しい橋)は架け渡されています。

 下流に見えるのは上毛電鉄の鉄橋。

 橋上から桐生方面を眺めてみると、左手にやや小高い山が見えますが、あれが水道山ということになるでしょう。

 その水道山の向こうに桐生が岡公園や、かつての桐生新町の中心街があることになります。

 「赤岩橋」を渡りきると、右手の小さな広場に、「渡良瀬川赤岩渡図」と記された案内板が立っていました。

 それによると、江戸時代に刊行された『天保巡見日記』に、「赤岩の渡し」について「危橋を架して渡船に替る、風景甚妙なり」と記されており、渡し船に替えて「橋」が架けられていることがわかり、それを描いた図絵が掲載されています。

 この図を見ると、渡良瀬川がやや上流で右へとゆるやかにカーブして山間部へと近づいているから、この木製の橋は、現在の「赤岩橋」から右手(北側)を見下ろした川岸に岩が露出しているあたりに架けられていたものと思われます。

 おそらく「赤岩の渡し」も右下に見える渡良瀬川の両岸を結んでいたものと思われる。

 そこから南側を見上げれば、現在の「赤岩橋」が架かる東西の絶壁が見えるはずであり、確かに「風景甚妙」であったに違いない。

 河岸に露出している岩肌の色は、やや赤味がかっているようであり、それが「赤岩」の由来であると思われました。

 「赤岩橋」を渡るとまもなく、「↑ 前橋 太田 →日光 大間々」を示す道路標示が現れ、それに従って右折すると、「日光 62km 大間々 3km」と記された道路標示が現れました(10:41)。

 この道を進めば、1時間弱で大間々に至ることになります。

 つまり正午までには、大間々に到着できるということです。

 「蒲焼泉新」の前を出発したのが9:40であったことを考えると、桐生新町二丁目の岩本家から大間々までは、「赤岩の渡し」を利用するメインルートを使えば、歩いておよそ2時間ばかりの距離であったことになります。

 しかし崋山一行は、堤村→小倉山の「十山亭」跡地→要害山→高津戸の渡しを経由して大間々に至っているから、この「赤岩の渡し」を利用するメインルートを、往路においては利用していないということについては、前に触れた通りです。


 続く


○参考文献
・『桐生織物と買継商─書上文左衛門家の300年─』(桐生文化史談会編)
・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)


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