鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.9月取材旅行「桐生~水道山公園~大間々」 その16

2012-10-23 05:26:58 | Weblog
 神明宮境内地の散策路を進んで行くと、「はね瀧(この崖下)」と記された案内板が立っていました。

 その案内板には、崋山の『毛武游記』中の「はね瀧」に触れた一節が紹介されていました。

 渡良瀬川の流れが岩に遮られて瀑布となっているから「はね瀧」と呼ばれているようだ、と崋山が記しているように、「はね瀧」という滝があるわけではなくて、川が岩々の間をほとばしるように流れ下っているからその名が出来たようです。

 「夏の程ハ香魚(アユ)下流より登り、このたきを越んとし飛あがるを、岩に坐て網をさし出せばあやまつて其中落るを取る。一時数百尾、まことに愉快なる事とぞ。」(『渡辺崋山集』より引用)と崋山は記していますが、これは船頭か、あるいは岩本茂兵衛から聞いたことであるのかも知れない。

 足尾銅山の鉱毒によって渡良瀬川がまた汚染されていない頃の、豊かな渡良瀬川の姿を彷彿とさせる文章です。

 森を出たところに「大間々頭首工」と記された案内板も立っていました。それによると「頭首工」とは農業用水利施設のことであり、はねたき橋直下(渡良瀬川右岸)に川の水の取り入れ口が設けられているとのこと。昭和56年度(1981年度)造成とあるから、比較的新しい施設。

 この案内文中に「岡登用水」という用水の名前が出て来ましたが、これは先ほど大間々に来る途中、右手にあった「岡登神社」を想起させるものでした。

 「岡登用水」とは、江戸時代初期(寛文年間)に、笠懸野の荒野を潤すために代官岡上次郎兵衛景能によって開削された用水であるという。

 「大間々頭首工」から採り入れられた渡良瀬川の水は、全面改修された「岡登用水」へとつながって、その用水路の流域一帯の灌漑に利用されているようです。

 また「はね瀧橋」の案内板もあって、それには、「はね瀧橋」の名前の由来として、「この橋の下では岩が狭まり水の勢いが急で岩に当って大波がおどり、はね瀧といはれたことから、このま橋の名前がつきました」とあり、崋山が記したような地名(「はね瀧」)の由来が記されていました。

 「はね瀧橋」を渡る手前にあった案内板によると、この新しい「はね瀧橋」の前に「旧はね瀧橋」というものがあったらしい。それは黒保根村の水沼と八木原を結ぶ「五月橋」を昭和28年(1953年)に移したもので、歩行者専用の木床吊り橋であったとのこと。

 三角の塔のある現代的な現在の「はね瀧橋」の上からは、下流へと続く深い峡谷すなわち高津戸峡谷を見下ろすことができ、そして左手に要害山の緑濃い斜面を見上げることができました。

 高津戸の渡しのあった付近に架かっている「高津戸橋」の赤い橋梁が、下流にわずかにのぞいています。

 橋を渡りきって右手の「高津戸峡遊歩道」へと入り、崖沿いの遊歩道を進んで「高津戸橋」のたもとに出たのが13:39。

 その「高津戸橋」を渡って左手へと入っていくと、そこが「ながめ余興場」のある「ながめ公園」でした。

 そこからは現在の「高津戸橋」の前身と思われる旧橋の一部を見ることができましたが、その下あたりがかつての「高津戸の渡し」のあったところではないかと思われました。

 現在の「高津戸橋」のやや下流になります。

 この下の渡良瀬川の両岸から綱が張られており、その綱をたぐって船頭が「渡し舟」を対岸へと渡したのです。

 崋山はその渡し舟の上から上流の峡谷を眺め、その峡谷の黒い松の茂りの中に打ちまじる鮮やかな紅葉の美しさに思わず嘆声を上げたのです。


 続く


○参考文献
・『蔵の町大間々まち歩きマップ』
・『大間々町誌通史編上巻』
・『渡辺崋山集 第2巻』


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