鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.9月取材旅行「桐生~水道山公園~大間々」 その6

2012-10-09 06:10:36 | Weblog

 手前下に見える緑広がる丘陵は、桐生が岡公園(遊園地・動物園)から南へと続く丘陵であり、その丘陵と市街が接する「山手通り」沿いに円満寺や桐生西宮神社や美和神社があることになります。

 桐生市街の東側にあり、渡良瀬川流域へとぶつかっている山は、観音山(標高307.5m)に連なる山であり、ここからはわかりませんがその手前を桐生川が流れています。その左側に連なって見える山々が、仙人ヶ岳や赤雪山、野峰などに該当するのでしょうが、具体的にそれとはわからない。

 観音山から南へと連なる山は途中で途切れ、その南側には渡良瀬川が流れているはずですが、その川面は見ることができません。

 左手の視界は樹木によって遮られており、桐生川上流方向の山々は見ることができません。

 その水道山公園の展望広場の中央に、「桐生東ライオンズ30周年記念事業」「水道山公園展望台」と記された、少し張り出した展望台があり、そこから眺めた桐生市街およびその周辺の景観は、まさに崋山が描いた写生画とほぼ重なっており、崋山が桐生の町を見下ろし、紙と筆を懐から出して写生した場所はこのあたりであると確信しました。

 崋山が桐生町の全体をここから写生したの天、保2年(1831年)10月15日(旧暦)の午後のことであり、今から180年以上も前のことであるから、桐生天満宮から渡良瀬川に向かって真っすぐに延びる通りを軸として、その通り両側に人家や商店などが密集し、その両側に田んぼや畑が広がる江戸時代の桐生新町と、現在の桐生市街とは当然のことながら異なっているのですが、まわりの山々の稜線も含めて、基本的な地形は変わっていません。

 この水道山公園の展望台からほぼ真東にある山が観音山であり、その観音山と水道山公園を結ぶ線の上に、矢野商店の「有鄰館」や岩本茂兵衛宅の跡地あたり、また「近江ズシ」(近江辻子小路)があることになります。

 松樹が鬱蒼と繁る山道を息絶え絶えに登って、ついに「豁然とうちひらけたる処」に崋山は出ましたが、そこが「絶頂」でした。

 その頂には松樹がほどよい具合に並び、その松樹の間に「石祠」がありました。

 その「石祠」は「雷電明神」の「石祠」であり、したがってその山の名前は「雷電山」と言いました。

 この峰は、ついには赤城山や足尾に及ぶというと崋山は記していますが、ここからの眺望は先ほどの円満寺や美和神社、光明寺、熊野権現の石祠のあった織石山からの眺望とは異なって、「桐生の地勢」が「手にとるばかり」に見わたすことができました。

 前方(東方向)には「下野国小俣の山々」が「屏立」し、その手前の麓には「毛野両国の境」である「桐生川」が流れている。

 この桐生川の源は「野州足尾の山中」であり、そしてついにこの桐生のある平地へと入り、そして渡良瀬川に流れ込む。

 この渡良瀬川はやがて利根川へと合流し、その利根川の流れは太平洋へと流れ込む。その河口にあるのが銚子の町。そこには「四州真景」の旅の時に滞在した大里庄次郎(桂麿)が居住し、その手前の潮来には宮本尚一郎(茶村)が住み、また津宮村には久保木清淵が住んでいました。

 右手の渡良瀬川の下流域を望む崋山の脳裡には、かつて旅した利根川流域と、そこに住むそれぞれの知己の顔が浮かんでいたのではないだろうか。


 続く



○参考文献
・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)
・『定本渡辺崋山 Ⅱ 手控編』(郷土出版社)



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