鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2012.9月取材旅行「桐生~水道山公園~大間々」 その5

2012-10-08 07:54:42 | Weblog
天保2年(1831年)の10月17日(大間々の要害山へ行った翌日)に、崋山のもとへ3人の来客がある。一人は医者の奥山昌庵。一人は織物買次商で桐生町の組頭を務める栗田重蔵。一人はやはり織物買次商の佐羽蘭渓(清助)。この佐羽蘭渓は、桐生町の豪商佐羽(本家)清右衛門の弟で、現在は分家し、屋号が「上毛屋」。この佐羽清右衛門家(本家)は、出羽松山藩の上州分領の領分取締役を務めており、その分家の一つが佐羽吉右衛門家であり、その佐羽吉右衛門家の2代目が佐羽淡斎でした(この佐羽吉右衛門家も織物買次商であり、淡斎は江戸歌舞伎三座〔中村・猿若・市村〕の元締をするほどの実力を有していました)。佐羽蘭渓(清助)は、翌18日の夜にも崋山を訪ね、そして19日には崋山を郊外の酒楼に招いています。その後、崋山は蘭渓の屋敷を訪れ、茶を飲みその蔵書を見せてもらっています。20日の夜も蘭渓は崋山のもとを訪れ、所持している絵を見せています。さらに21日、蘭渓は奥山昌庵とともに、崋山に足利行きの話を持ち掛け、その日の午後から高木梧庵を含めた4人は足利に向けて出立します。足利では足利学校などを訪ね、桐生に戻って来たのが23日。2泊3日の楽しい旅を、崋山は佐羽蘭渓や奥山昌庵などと過ごしています。ということは、17日から23日までの8日間を、毎日のように崋山と佐羽蘭渓は親しく接していたことになるのです。 . . . 本文を読む

2012.9月取材旅行「桐生~水道山公園~大間々」 その4

2012-10-04 05:57:00 | Weblog
崋山が大間々の要害山に赴こうとした理由の一つは、桐生の漢詩人佐羽(さば)淡斎(1771~1825)が、小倉山という丘に建てた別荘「十山亭」に建立した詩碑(「十山亭詩碑」)に興味を持ったからだろうと思われます。10月14日に岩本家の主家にあたる玉上甚左衛門を訪ねた時に、その佐羽淡斎や「十山亭詩碑」のことが話題に出たようだ。この詩碑の書は、玉上甚左衛門が、唐代の書家顔真卿(顔魯公)の文字を集めて書いたものでした。16日、崋山一行は堤村を経て小倉山に登り、その「十山亭」という別荘を訪ねてみましたが、別荘は風雨のために壊れてしまい形を失っていました。傍らに建立されていた「十山亭詩碑」は要害山に移されており、すでにそこにはありませんでした。小倉山上は近辺でも随一の景勝地であり、そこからは「十山」すなわち赤城・三国・妙義・榛名・浅間・日光・碓氷・破風・三峰・富士山を一望に見渡すことができました。だから佐羽淡斎は、その別荘を「十山亭」と名付けたのです。佐羽淡斎とは二代佐羽吉右衛門のことで、織物買次商を営み、薄利多売の商法で繁昌。漢詩をよくする文化人でもあり、全国各地に自作の詩碑10基を建立したという。また江戸歌舞伎の中村・猿若・市村三座の元締でもあったとのこと。文政8年(1825)に没しているから、崋山が桐生を訪ねた時には、すでに(6年前に)亡くなっていたことになります。 . . . 本文を読む

2012.9月取材旅行「桐生~水道山公園~大間々」 その3

2012-10-03 05:51:22 | Weblog
銚子の場合、崋山が銚子およびその周辺の「地勢」を俯瞰した場所は、大里庄次郎家の菩提寺であった浄国寺境内や和田不動堂でした。浄国寺のある高台の端には「日観亭」というのがあり、そこからの眺望は、宮負定雄の『下総名勝図絵』にも、「辺田村浄国寺にあり。見はらしの景色尤(もっと)もよし」と記されており、銚子にやってきた一茶を自宅に泊めた大里庄次郎(桂麿)は、一茶をここに案内しています(文化14年〔1817年〕6月1日)。この「日観亭」は浄国寺の本堂裏手にあった物見台であり、ここから西方を望む眺望の美しさで知られました。『下総名勝図絵』の図絵によれば、そこからは利根川の川岸に沿う家並みやその手前の田園地帯、滔々と流れる利根川およびその流域の景観を眺めることができたようだ。和田不動堂は利根川河口部南側の高台にあり、江戸時代以来、銚子・波崎の漁師をはじめ水産関係者の信仰を集めたところ。眼下には利根川河口部の飯貝根の集落や対岸の波崎、そして鹿島灘の海の広がりを見晴るかすことができました。それらの眺望から銚子の「地勢」を観察した崋山は、桐生の町においては、町の西方にある山(雷電山)の頂から桐生の「地勢」を観察したのです。この「雷電山」とは現在の「水道山」のことであり、そこの頂には現在「水道山公園」があって、崋山と同様に桐生市街の眺望を楽しむことができるのです。 . . . 本文を読む

2012.9月取材旅行「桐生~水道山公園~大間々」 その2

2012-10-01 05:51:37 | Weblog
崋山はなぜ「桐生町より西なる山」や大間々の要害山に登ろうとしたのか。キーワードは「地勢」という言葉。雷電山の頂からの眺望を、崋山は、「桐生の地勢手にとるばかり見わたさる」と記し、また「地勢をうつし終りて…」とも記しています。「地勢」とは「土地のありさま」「山・川・平野・海など地理的事象の配置のありさま」のこと。「地理的配置」といっていいかも知れない。桐生町の「地理的配置」つまり「地勢」を知るためには、高いところに登って、そこから全体を俯瞰するに如くはない。崋山は「四州真景」の旅の際にも、銚子の町を俯瞰するために町の西側の台地上にあがり、そこからの景観を写生しています。田原の城下町に赴いた時にも、近くの蔵王山に登っているはずです。彼は10月21日から23日にかけて足利に赴いていますが、その時にも足利郊外の山に登り、足利の町を俯瞰。そこで「此地の地勢をうつしとりて」、宿に戻っています。高いところに登り、その地の「地勢」を俯瞰し、その「地勢」を写生するというのは、崋山にとって、たんなる絵画的な写生にとどまらず、その地の「殷賑」(経済的な繁栄)がどういう「地勢」によってもたらされているかを知るためのものでもあったと思われます。 . . . 本文を読む