鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「函館 その5」

2008-09-02 06:20:40 | Weblog
 中江兆民が、単身、粗服と兵児帯(へこおび)姿で、上野始発の一番列車(汽車)で仙台に向かったのは、明治24年(1891年)の7月21日でした。その頃の兆民は、意識的に酒を断ち、この列車の中でも酒を飲むことはありませんでした(おそらく)。

 仙台駅に着いたのは、同日夕刻6時過ぎ。雨の仙台駅に到着した兆民は、駅前の「大泉旅館」(どこにあったのか?)に入り、その2階の客室に宿泊しています。

 翌22日の早朝、兆民は、親友である衆議院書記官小島竜太郎の妹婿である草野宜隆(地方裁判所検事)を訪問。また自由党議員伊藤大八の岳父である高桑某を訪問。

 午前11時には大泉旅館を出て、仙台駅から汽車で塩釜に向かいます。正午過ぎ、塩釜駅に到着した兆民は、「海老屋」という旅館に入ります。翌23日には塩釜神社に参詣。面白いことには、菖蒲田浜というところで海水浴をしているということ。そしてその日も、「海老屋」に一泊しています。つまり連泊。

 翌24日、兆民は、塩釜の港から牡鹿(おしか)半島の付け根にある萩の浜(現石巻市萩浜)へ行く小蒸気船に乗り、その萩の浜で、日本郵船会社の「相模丸」に乗船。「相模丸」が萩の浜を函館に向けて出航したのは、午後4時過ぎでした。

 さて、この日本郵船の「相模丸」ですが、まず、日本郵船会社について触れておきたい。

 日本郵船会社は、明治18年(1885年)の9月29日に、郵船汽船三菱会社と共同運輸会社が合併して正式に発足したもので、開業は同年10月1日からでした。海外航路を3線、国内航路を11線、北海道関係では、北海道~本州を3線、北海道内を5線、保有していました。

 この北海道~本州3線というのは、①神戸~小樽(日本海回り)②神戸~横浜~函館(太平洋回り)③青森~函館であり、このうち、②の横浜~函館の航路は、明治15年(1882年)10月に、三菱が、「兵庫丸」と「高砂丸」の2隻により、6日毎に結んでいた定期航路を利用したものでした。

 この②の航路は、神戸~四日市~横浜~萩の浜~函館を結ぶものであり、この日本郵船の定期航路の場合、最初は4艘体制でしたが、明治23年(1890年)7月1日より6艘体制となりました。

 兆民が、萩の浜より乗船した「相模丸」は、この日本郵船会社の「東回り航路(「兵庫航路」とも言う)という定期航路に就航していた大型汽船の一つでした。

 この航路は、明治25年(1892年)1月には、函館から小樽まで延長されることになるのですが、兆民が「相模丸」に乗った時は、函館までの航路でした。

 東京から函館(ないし小樽や札幌など)に向かう場合、この航路を利用して、横浜から日本郵船の船に乗れば一番早かったと思われますが、兆民は、なぜか横浜には行かず、鉄道で上野から仙台まで行き、それから塩釜を経由して萩の浜から乗船しているのです。

 ネットで調べてみると(これがネットのすごいところ!)、この兆民が萩の浜から乗った「相模丸」の写真が出てきます。「郵便汽船三菱会社・共同運輸会社の新造輸入船─明治前期」として、「横浜丸」「東京丸」「山城丸」「遠江丸」「薩摩丸」「長門丸」「紀伊丸」「陸奥丸」「美濃丸」「肥後丸」「駿河丸」とともに、この「相模丸」の写真とデータが出てきます。

 これによれば、「相模丸」は共同運輸会社の新造輸入船であり、明治17年(1884年)に、イギリスのニューカッスルのアームストロング・ミッチェル会社で造られ進水したもの。鉄製汽船で、明治18年(1885年)の三菱との合併により共同運輸会社から日本郵船会社に移籍しています。

 ちなみに、この「相模丸」は、明治37年(1904年)5月3日、日露戦争の際、旅順港閉塞のため旅順港口で沈められたという。

 兆民が牡鹿半島の萩の浜から乗船した「相模丸」は、進水(イギリス製!)してから7年目の、まだ新しい大型汽船であったということになる。

 中江兆民は、その「相模丸」で、7月25日の夕刻6時過ぎ、函館の港に入り、東浜町の波止場に艀(はしけ)で上陸したはず。

 当時の函館は、東回り航路(太平洋航路)の港として、また津軽海峡を隔てて青森とつながる港として、さらに道内航路の起着点となる港として、大いに賑わい、北海道と本州を結ぶ貨物や旅客の集散地ないし中継地として活況を呈していました。港には大型汽船や大型帆船、さらには昔ながらの北前船(きたまえぶね)などの和船がおびただしく碇泊し、波止場のある東浜町周辺では、大型倉庫の建築ラッシュが展開されていました。

 東浜町の波止場周辺の旅館や茶店、また飲み屋なども、函館港を利用する人々で、たいへんな活況を見せていたと思われますが、その函館に、「相模丸」から艀にのった兆民は上陸し、北海道の大地に第一歩を印したのです。この函館で兆民が宿泊したのは「キト旅店」でした。


 続く


○参考文献
・『中江兆民全集⑬』「東京より北海道に至るの記」(岩波書店)
・『中江兆民評伝』松永昌三(岩波書店)
ネット
・「函館市史デジタル版」
・日本郵船「相模丸」


最新の画像もっと見る

コメントを投稿