鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2008年 夏の北海道西海岸・取材旅行 「小樽 その1」

2008-09-04 07:22:43 | Weblog
 中江兆民は、函館から小樽までどのように来たかというと、明治24年(1891年)当時、函館と小樽を結ぶ鉄道はなく、7月26日の午前8時前、濃霧の中、函館の東浜町の波止場から艀(はしけ)に乗って沖合いに浮かぶ日本郵船会社の「遠江丸」に乗船し、午前8時に函館を出港。翌27日の早朝午前5時に小樽港に到着しています。そして色内町(いろないまち)の「キト旅店」に入っています。そして朝食を「キト旅店」で摂った後、「粗服に兵児帯姿」のまま、色内町の「北門新報社」に赴き、社主金子元三郎(23歳)を訪問したのです。

 『北門新報』は、この年の4月20日に小樽で創刊されたばかりの新聞。社主は金子元三郎。発行所は色内町73番地の金子商店内。金子商店は、ニシン漁場と海産物問屋の経営を行うとともに、手広く卸(おろし)商も営んでいました。金子元三郎は、この金子家に養子として入ったのですが、この元三郎の義父は、早くから松前で漁業を営み、明治17年(1884年)には天塩(てしお)・焼尻(やぎしり)島にニシン漁場を設けました。しかし松前が徐々に衰えて、天塩でのニシン漁場経営が不便になったため、明治18年(1885年)に小樽の色内町に拠点を移しました。しかし義父は明治21年(1888年)に死去。養子である元三郎がその跡を継ぎ、金子商店を運営していました。

 明治24年当時、新聞は、札幌に『北海道毎日新聞』がありましたが、金子元三郎は、小樽での新聞創刊を企図。この年の春、金子元三郎は、日本亡命中の金玉均(岩田周作)を介して中江兆民に『北門新報』主筆の話を持ち込み、その求めに兆民は快諾。最初は東京から記事を郵送していましたが、この年の7月、突然に東京を出立して小樽の地に向かうことになったのです。

 兆民はなぜいきなり小樽行きを思い立ったのか。

 その大きなきっかけとなったのは、この年の6月15日、当時滋賀県知事であった渡辺千秋が北海道庁長官になったことが挙げられます。この渡辺千秋とは、兆民はすでに親交がありました。

 この4日後の6月19日、兆民は、この北海道庁長官に任命されたぱかりの渡辺千秋とともに、大津駅発の東海道線で陸路東京に向かっています。この車中において、兆民は渡辺千秋と、北海道のことについて意見を交換していた可能性がある。

 これが、兆民が小樽の地まではるばる出かけていくきっかけになったのでは、と私は考えています。


 続く


○参考文献
・『中江兆民全集⑬』「東京より北海道に至るの記」(岩波書店)
・『中江兆民評伝』松永昌三(岩波書店)
・『中江兆民』飛鳥井雅道(吉川弘文館)


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