素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

『LIP 2014年12月号』で宮崎隆太郎さんが亡くなったことを知る

2014年12月10日 | 日記
 『LIP』は「Local Information Paper」の頭文字をとっている。枚方市民発の福祉、教育、文化、環境、ボランティアなどの情報を掲載する地域密着型情報紙である。枚方市を中心に趣旨に賛同される施設、店などに置かれている。作日、メセナひらかたに立ち寄った時に12月号があったので他のチラシとともにいただいてきた。

 そこの宮崎隆太郎さん遺作  というところに「ウウン?」となった。
 

 「あの隆太郎さんか?」とすぐにページを開いた。そこには

◆障害児教育に力を尽くされた、宮崎隆太郎さんが亡くなられました。最晩年にご縁があり、「光竜」の筆名で、LIPに五行歌を何度か掲載させていただきました。同じく五行歌を掲載させていただいた、高槻在住の梅田和子さんから追悼五行歌をいただいたので、宮崎さんの遺作とともに紹介させてもらいます。ご冥福をお祈りします。(LIP編集局)
◆有難うございました。ゆっくりおやすみください。(鶴島緋沙子)
       とあった。

「やっぱりそうか」と昨日見た枚方支援学校の建築現場を思い浮かべながら昨日とは違った感慨にとらわれた。

 宮崎さんは私より10年ほど先輩である。新任で村野中学校に勤め始めた時、開成小学校に勤められていた。当時の枚方市では『障害』児教育を巡って論争のさなかにあった。「すべての子を普通学級で!」という論が主流であったが、その理論的支柱にあったのが宮崎さんだった。愛知県からやってきた私は面食らった。養護学級や養護学校は隔離の発想だという主張と発達段階に応じた教育の保障というところで対立した。

 自分の中で確たるものをつかめないまま、普通学級に『障害』を持った生徒を受け入れ、担任としてまた教科担任として試行錯誤の日々を過ごした。この問題は退職するまでずっと続いた。

 ただ、「枚方市に養護学校を」という声が、宮崎さんの考え方に賛同する人たちの反対で実現できないまま現在に至ったことに関しては残念だったと思っている。現実、中学を出た後の進路先として多くの枚方の生徒が交野養護、寝屋川養護にお世話になっているという現実があった。通学のこと、両学校のキャパシティーを考えると無理があった。

 教育に関しての考え方はいろいろあってもいいし、大正解は存在しない。常に目の前にいる生徒と保護者とともに考えていくのが基本である。「なぜ枚方市にはできないのか」と問われた時に答えが見つからなかった。

 それでも宮崎さんが提起したさまざまな問題についての論争は貴重なものだったと思っている。

 遺作の異端五行歌「子ども」二十首の中にも、当時を想起させるものがある。

教員同士も
ぶつかりあった
泣かれたりうらまれたりもした
そんなやりとりができた時代は
学校も教員も少しずつ変化した

かつて養護学校からも
拒否された「障害児」が
校区の学校や普通学級で
学べるようになるまでの
教員の激しいぶつかりあい
 

 私は村野中から転勤した後は宮崎さんとお会いしたことも話を聞いたこともない。それでも忘れえぬ人の一人である。

 建設の進む「大阪府立枚方支援学校(仮称)・むらの高等支援学校(仮称)」と宮崎さんの訃報に因縁めいたものを感じたのである。

 
コメント
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