素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

シュウカイドウ

2023年10月02日 | 日記
先日の馬場あき子さんの話しの中で、鬼にまつわる話の他に、「なるほど!」と思ったものがある。
 さくら花 幾春かけて 老いゆかん  身に水流の 音ひびくなりという自身の歌に続いて
「毎年毎年 桜を詠む。 毎年毎年 ゆりを詠む。 庭に咲いていればね。
 そすればね そのゆりの花 そのものの詠み方によって 自分の人生の変化とかなんかが 出てくるわけで
 それも なかなか面白いですね
 昔の人は 春になると 桜を詠んだでしょう  50年間桜を詠んだら 桜の歌だけ見ても
 その人の人生の思いの変化というものが出てくる・・・」
という下りである。

 この言葉を聞いて、先日のブログでふれた劉希夷の「白頭を悲しむ翁に代わりて」と題する詩の中の有名な【年歳歳花相似たり 歳歳年年人同じからず】を「毎年毎年庭には同じ花が咲く これを見る私は毎年毎年変化していき感じ方も変わっていく」という風に考えてもいいのではないかとふと思ったのだ。

 たとえばシュウカイドウの花、去年の9月12日に写真を撮り書いているが、今年は今日撮った。この1年の間に「漢字の植物苑」(円満字二郎・岩波書店)という本に出合ったおかげで、「秋海棠」という名前のもとになっている春に咲く「海棠」について、「楊貴妃の故事」から「垂れる花」ともいうことが加わった。その故事とは、唐王朝の時代、楊貴妃の夫であった玄宗皇帝が、明け方まで飲んでいた酒の酔いからまだ醒めきっていない彼女のなまめかしい姿を、「眠り足りない海棠のようだ」とたとえたというものである。

 今日見つけた「シュウカイドウ」にも気品あるなまめかしさを感じたのはその知識のためか?
 来年はどう見えるだろうか?花は変わらないが、私は変わることができる。馬場あき子さんの話しからそう思った。



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